Photo by Antony Tran
「これはおいしいです。」覚えたての日本語で、はにかみながらバングラデシュのスナックを指差すテレサちゃん。新大久保の小さな売店では、スパイスから日用品まで慣れ親しんだものが揃う。来日して5ヶ月。「東京はとてもきれいで安全。がっかりしたことはまだ何もありません」とほほ笑む。15歳の彼女は高校もこれから。日本語を猛勉強しながら、異国での新たな生活を楽しんでいる。隣で食材を手にとり、ベンガル語で話しかけるジョフラさん。夕飯の相談だろうか。仲良く笑い合う親子の姿はとても幸せそうだ。カビールさんは、そんな娘と妻を守るように先頭を歩き、車がくると振り返って注意する。ずっとこうしてきたかのような、一家の自然な風景。それが8年9ヶ月も叶わなかったことのようにはとても見えない。
カビールさんが日本に逃れてきたのは2005年。母国ではびこるテロと汚職をなくすため、ジャーナリストとして記事を書いたことから、過激派グループと政府から命を狙われるようになった。身を隠して果敢に書き続けたが、近しい仲間が暗殺され、彼にもいよいよ危険が迫った。妻と3人の子どもたちが心配だったが、自分が殺されてしまっては、家族を守ることも、母国を変えることもできない。出国を決め、難民を受け入れている国へ逃れる術を探した。難民条約に入っていても政策は国によって異なる。例えば、年間の難民認定率・人数を比較すると、ドイツで38%・約10,000人、オーストラリアで31%・約5,000人、日本で0.1%・6人*とその差は歴然だ。認定後に保障される権利も一律ではない。難民として認定されると、家族にも永住権が与えられ、速やかに呼び寄せられる国も少なくないが、日本はそうなっていない。どこに逃れるかがその後の人生に大きく影響するのは明らかだ。カビールさんも知人がいるドイツなど、難民を多く受け入れている国へ行くことを考えていたが、どこもビザの取得が難航。危険が差し迫っていたそのとき、すぐにビザを取得できたのは日本だけだった。たまたま大きな国際会議があり、ジャーナリストとして渡航できるからだ。事前に調べて知った日本の消極的な難民政策にためらったが、時間がなかった。
日本で待ち受けていたのは、想像をはるかに超えた厳しい難民認定手続きと生活。難民認定を目指して、難民支援協会(JAR)のスタッフや連携する弁護士とともに、 難民であることを証明するための膨大な資料を作成した。積み重ねると広辞苑をしのぐ厚さだ。いつ結果を言い渡されるかは分からず、先の見えないストレスと闘いながら、わずかな生活費で食いつないだ。日本語が分からず、40歳を過ぎた彼の仕事探しは簡単ではなかったが、母国に残した家族にとって、彼が大黒柱であることは変わらない。妻の仕事で3人の子どもを養うことは難しく、日本から支える必要があった。見つかる仕事は工場での肉体労働など馴染みのないものばかりだったが、何でも引き受け、切り詰めた生活でわずかに浮いた額を送金した。不安にさせまいと食事を抜いて電話代を捻出し、まめに家族と連絡をとった。「お父さんは日本で何でもできていいな」と電話先でうらやむ娘に、自分が置かれた状況はとても打ち明けられなかった。そんな生活に4年耐え、2009年にようやく難民認定を手にした。しかし、喜びもつかの間、予期せぬ問題に直面した。許可されるはずの家族の呼び寄せが理由も分からないまま却下されたのだ。理由が明らかにされない以上、どうすれば良いのかさえも分からない。申請が却下され続けるなか、さらに3年、4年と月日はたち、子どもたちは会えないままどんどん大きくなっていった。
▲写真:カビールさんが難民認定のために提出した書類の束
彼と妻のジョフラさんにとって、最も大きな懸念は子どもたちの教育だった。幸い日々の生活は「あのジャーナリストのカビールさんの家族」として周りの人たちが支えてくれたが、子どもの教育はそうはいかない。バングラデシュの多くの家庭では、息子の教育において父親の担う役目が大きく、母親が肩代わりすることは容易ではないという。カビールさんも日本に逃れてからは、電話越しに何とか関わろうと試みたが、うまくいかなかった。「私にはもうこれ以上、無理」と妻に泣かれても、どうにもしてあげられず、息子との心理的な距離は開く一方だったという。息子はすでに自立して親元を離れたが、大事な時期に寄り添えなかったことは、悔やんでも悔やみきれない犠牲だと話す。また、不在のうちに嫁いだ長女の結婚式に参列することも、新しい門出を見送ることも叶わなかった。その間、家族の呼び寄せは拒否され続け、希望を失ってもおかしくない状況だったが、カビールさんは「何としてでも家族を呼び寄せる」という強い意志の下、関係者に働きかけることを諦めなかった。
▲写真:カビールさん不在中の家族の写真
そして、2014年6月。8年9ヶ月越しで、ついに家族の呼び寄せが実現した。長男と長女はすでにそれぞれの家庭があり、一緒に暮らすことはできないが、いま東京にはジョフラさんと次女のテレサちゃんがいる。「早く日本語を話せるようになって、日本で勉強したい」というテレサちゃんと、「仕事はしたことがないけれど、挑戦してみたい」とジョフラさん。2人とも政府による難民定住プログラムに参加し、毎日5時間以上の日本語学習に励んでいる。離れて暮らした約9年の間に家族が失ったものは、この先、取り戻せるものばかりではない。それでも一家には、安心してともに暮らせることの有り難みが誰よりも分かるのではないだろうか。3人が日本で暮らしていく上で、これからも苦労は尽きないだろう。しかし、離れていながら互いを信じ続け、数々の困難を乗り越えてきた一家が、ともに暮らし、力を合わせれば乗り越えられないことはない。新大久保を歩く一家の後ろ姿からはそんな強い意志が表れていた。
空港での再会に立ち会ったスタッフの声
“この貴重な機会に立ち会えて、感慨深かったです。彼と知り合って9年、やっとこの瞬間が来たのだと…。弁護士やボランティアの方のサポートはもちろんですが、何よりもご本人が強い意志を持ってずっと踏ん張ってこられたことに、心から敬意を表します。「家族がそばにいたら、幸せなことも困難も、何でも分かち合ってやっていける」と彼が言った通り、ご家族で力を合わせて未来を切り開いていかれるだろうと信じています。”
難民認定を得ることはゴールではなく、日本における生活再建のスタートに過ぎない。日本で新たに生活を切り開いていく上で、家族がそばにいることは何よりも大きな支えとなるはずだ。在留資格を得たものの、家族の呼び寄せが認められずに、孤独のなか長年闘い続けている難民は少なくない。難民が適切に保護されるよう、そして難民認定の先に、人として当たり前の日常を回復できるよう、働きかけていく。
*UNHCR Global Trends 2013による