※2017年9月24日ドイツ総選挙に関する記事はこちら:「ドイツ総選挙―日本の報道の傾向と課題」
難民・移民の流入が2015年だけで100万人に達したと言われるドイツ。かつて旧ユーゴスラヴィアから多くの難民を受け入れた経験があるとはいえ、その倍以上の受け入れは決して容易ではないはずです。なぜ、ドイツはそれでも難民受け入れの意志を貫くのか、その歴史的背景や政治的リーダーシップを支える市民社会について、研究者の久保山亮氏に聞きました。
――ドイツは1950年代~70年代にかけてトルコなどから移民労働者(ガストアルバイター)を多く受け入れたものの、社会統合に失敗したとよく言われますが、実態はどうだったのでしょうか?
まず誤解を招かないように申し上げると、日本では「ドイツでは移民労働者のほとんどが家族を呼び寄せ、そのまま定住した」と考える人が多いのですが、実際にドイツに残ったのは1,500万人のうち300万人、全体の四分の一にも満たない数です。問題は社会統合の失敗というよりも、移民労働者が家族を呼び寄せるにあたって、再開発地区などの低家賃の劣悪な住宅で集住を始めたことでした。「ゲットー化」と言われますが、同じ国の出身者が固まって定住しては社会統合上、大きな困難を抱えると懸念されました。
――では、その後に、どのような問題が生じたのでしょうか?
中学校での退学と職業訓練への低い参加率
ドイツでは現在、住民の5人に1人が移民の背景をもっています。10代以下の若い層では、移民の背景をもつ人が人口の三分の一近くを占めます。また、1990年代末に導入された出生地主義(生まれた国の国籍を取得できること)を採っているため、留学生や難民申請者を除く外国人の子どもは、親が8年以上ドイツに居住していれば出生と同時にドイツ国籍が与えられます。2014年以降は一定期間の居住もしくは、学校に通っているという条件のもと、二重国籍も認めるようになりました。つまりドイツ国籍と親から受け継いだ国籍の両方を持てるようになったということです。
このように移民が増えてくるにあたって最初の問題は、彼らがドイツ特有の「資格社会」に乗っていけないことでした。ドイツには職業訓練とそれによる職業資格のシステムがあります。大学進学校、実科学校に進学しなければ、基幹学校と呼ばれる「中学校」に進むのですが、それを終えると、OJT(職場での実地研修)で職業訓練を受けながら、週に1~2回、職業学校で簿記、外国語などの技能を学び、2、3年後に試験を受けて国家資格を取るシステムです。どんな職業にも国家資格がしっかりとある社会なので、その中に入っていくことが社会統合の第一歩になりますが、移民の若者がそこに入っていけないケースがあります。
というのも、そもそもの学校教育でドロップアウト(退学)してしまい、職業訓練の前提となる卒業資格を得られない子どもの比率が、ネイティブの子どもに比べて高いのです。夜間学校に通って取り返せないことはないですが、なかなか難しい。結果として職業訓練の参加率が相対的に低いこと、大学など高等教育への進学率がなかなか上がってこないことが、長年の問題でした。
移民の背景をもたない人 44%
移民の背景をもつ人 38%
2014 Statisches Bundesamt et.al. Datenreport 2016による
しかし、徐々に改善されてきました。およそ半数の人が卒業資格をもたない時代もありましたが、今は、移民の背景を持たない人で2%、移民の背景をもつ人で12%です。特筆すべきは大学進学率です。移民の背景をもたない人の進学率44%に対し、移民の背景をもつ人の進学率は38%にまで迫ってきています。移民の背景をもってドイツで生まれ、ドイツ国籍を有する子どもの進学率は、移民の背景をもたない子どもの進学率を超えてさえいます。これは、彼ら自身の努力、現場の教師やNGO、福祉団体の人たちの長年の粘り強い努力もありますが、「子どもに大学に行ってもらいたい」と願う親世代のモチベーションが、90年代、2000年代と時代が進むにつれて高まってきたことの表れでもあります。
就職の困難さ、差別などで社会への統合がなかなか進まない
ただし、ここで問題にしたいのは、職業訓練を受けても国家資格を得られない人が、69%もいることです。私が話を聞いたケースワーカーたちが口を揃えて言っていたのが、移民の若者が国家資格取得に必要な職業訓練のポストを得ようと、あるいは就職をしようと履歴書を送っても、国籍やトルコなどの中東圏諸国にルーツをもつ人特有の名前のために、書類選考で落とされてしまう、ということでした。
連邦政府もこの問題を重視しています。メルケル政権発足後、数年に1回、労働組合、経済団体、移民団体及び自治体の各省庁の代表者を集め、移民の社会統合に関する目標や計画を立てる「統合サミット」を開いていますが、2014年12月の会合では、政府は特に経済団体に対して、移民の若者が差別なく職業訓練を受けられるように、あるいは就職できるようにと要請しました。こうした就職や職業訓練を受けようとする移民の若者への差別は、フランスをはじめ他のEU諸国でも起きている問題です。この問題は、長い目でみたときに、絶望した移民の若者をホームグロウンテロに追いやりかねない要因の一つとなる可能性もあります。もちろんこの問題は慎重に考える必要があり、短絡的に結びつけることは控えねばなりません。ドイツではいくつかの自治体が率先して、履歴書に国籍や名前等を書かない「匿名の履歴書」制度を始めました。移民が起業した企業や志のあるドイツ人経営者の企業でも、この制度を採用しています。
――ドイツの社会統合において生じた問題に対して、政府の政策はどのように変化していきましたか。
1980年代~90年代まで、連邦政府や自治体は移民の社会統合政策に非常に無関心で、福祉団体やNGOに予算や補助金を出してほぼ丸投げする形でした。しかし90年代にフランスで移民の暴動が頻発し、「放っておくとドイツでも同じことになる。このままではいけない」と、重い腰を上げた自治体が統合政策に取り組むようになり、連邦政府も、2004年の移民制御法で、自らの財政支出で賄う、ドイツ語講習とドイツ社会の知識を学ぶ「統合講習」を取り入れました。連邦政府が移民の社会統合にきちんと向き合うようになったのはこれが初めてです。ただ、この統合講習は、ドイツが先進的に始めたわけではなく、オランダですでに行われていた「市民化講習」をまねて、取り入れたのです。
特筆すべきは、自治体の動きがかなり活発になってきていることでしょう。例えば、ニーダーザクセン州では、各自治体が、既存の団体やNGOの活動を調整してネットワークを形成し、合同プロジェクトを立ち上げたりするセンタ―を設立するなど、1990年代後半から2000年代にかけて動きが活発になってきました。個々の自治体の働きもありますが、連邦政府や州政府の取り組みが功を奏した結果でもあると思います。
問題は、難民申請中の人は、統合講習を受けられず、こうした社会統合政策の枠組みの外に置かれていたことです。周知のように、難民の認定審査は時間がかかります。その間、社会統合の枠組みの外に置かれていることは、問題があります。そこで、自治体の中には難民申請者の人たちも、ボランティアの力も借りながら、ドイツ語の講習を受けられるようにするなど独自の取り組みを行うところも出てきています。後でお話ししますが、連邦政府も2015年秋の法改正で、ドイツに残る可能性が高い国(つまり難民としての認定率が高い国ということです)から来た難民申請者は、統合講習を受けられるようにしました。難民への社会統合の取り組みもこのように少しずつ改善されてきました。
――旧ユーゴスラヴィアから多くの難民を受け入れた92年の43万人をピークに、難民申請者は緩やかに減っていき、政府が外国人住民の社会統合政策に本格的に乗り出した2004年からも減ってきています。当時は難民に厳しい(申請を控えるような魅力的でない)政策をとっていたのでしょうか?
そうですね、正確に言うと、2004年当時ではありません。90年代初頭に難民が多くやってきて、ドイツでは大きな問題になり、憲法の難民庇護の規定が改正されたり、難民がドイツに来るモチベーションを下げようとして、難民の受けられる給付を制限する法律ができたりしました。
しかし、90年代初頭に難民が多かったのはユーゴスラビア紛争の影響です。1950年代~70年代の移民労働者(ガストアルバイター)を大量に受け入れた時代、クロアチアを中心に旧ユーゴスラビアから多くの移民がドイツに渡ってきました。そのため既に国内にユーゴスラビア系のコミュニティがあって、ユーゴスラビア紛争の際に多くの難民がやってきたのです。90年代末のコソボ紛争でも、コソボ系のコミュニティがあったので多くの難民がやってきました。
92年以降、90年代末前後のコソボ難民のケースを除いて、難民が減ったのは、ヨーロッパ周辺で目立った民族紛争が収まった要因が強いと思います。しかし2010年の「アラブの春」以後、中東地域は不安定になりました。シリアやイラクが内戦状態に陥ったことは言うまでもありませんが、エジプトでは選挙で選ばれたムスリム同胞団の政権が倒され、その後樹立された軍事政権がムスリム同胞団に対して大量に死刑判決を出すなどの人権侵害が顕著になり、大量の難民が発生したわけですね。またドイツでは、ケルンの事件(2015年大晦日にケルン中央駅前やケルン大聖堂前などで起きた集団暴行事件)に関わった者が多かったのが、モロッコ、アルジェリア、チュニジアの出身者でしたが、現在、これら3か国は「安全な出身国」、つまり帰国しても危険はないと見なされ、スピード審査で難民認定から事実上締め出そうとしています。しかし、NGOの調べでは、これらのマグレブ諸国でも言論弾圧や人権侵害の問題があり、難民として逃れてきた人がいます。全体として、このような背景から2010年代から難民の数が増えてきているのです。
――ドイツへの難民・移民の流入は昨年末(2015年末)で100万人に達しました。旧ユーゴからの難民を受け入れた歴史があるにしても、その倍以上の受け入れは困難が容易に想像されながらも、ドイツはなぜ難民受け入れを続ける意志を貫くのでしょうか?
1. 敗戦後に多くの難民を受け入れた歴史‐難民を保護する義務を憲法に
いくつかの要因があります。まず、ドイツは憲法に、政治的迫害を受けた難民を保護する義務を規定している世界でも稀にみる難民受け入れに積極的な国であることです。歴史的に忘れてはならないのが、ドイツは敗戦直後から1950年代の間、戦時中に労働力として連行され故国に帰らなかった元捕虜や元強制労働者など戦争難民(displaced persons)、東欧諸国から追放されたドイツ系植民の子孫(被追放民)など少なくとも約1,650万人の難民を受け入れたことです。当時は失業率が極度に低く、非常に人手不足の時代で難民受け入れの好条件はありましたが、それでも1,650万という人々を社会に統合させた経験をもつドイツにとって、一度に115万人の難民が来たとしても、決して新しいことではないとの意識があったのでしょう。
2.難民受け入れは「恩恵」ではなく「投資」
それから二つ目、日本と大きく違う点は、日本では日本語学習を一種の「恩恵」として与えるのに対し、ドイツの場合は「投資」と捉える点です。難民の人たちがドイツ語を習得し、職業訓練を受けて技能を身につける、あるいは(大学生や大卒者であれば)追加的な教育を受けて大学卒業資格をとり、難民認定を受けてドイツに残ってくれれば、2年後、3年後には技能を持った労働力や高度な能力をもつ人材として、ドイツの高度人材不足を埋めてくれるのではないかと考えています。ご承知の通りドイツでは、日本同様に少子高齢化、将来的な労働力不足という問題を抱えているので、今後も移民を受け入れて労働力を埋めていくしかないのです。難民をお情けではなく、将来の投資として迎え入れる発想は早くからドイツにありました。具体的には2015年8月メルケル首相がダブリン規則(最初に入国したEU加盟国でしか難民申請できないことを定めた)を棚上げして、ドイツに来たい難民は全員受け入れると言った時期からです。将来の投資として難民を受け入れる要因が大きかったと思います。ドイツは起業をする人が少ないのも悩みでした。ドイツ政府の中でも、日本の経産省にあたる経済省は、早くからこの大量の難民を貴重な人材候補と見ていて、難民の中に起業意欲をもつ人が多いことに目をつけると、難民の起業をアシストするプロジェクトを始めました。
3.市民の強い意思と包容力
三つ目の大きな要因は、市民の難民受け入れに対する理解です。一時期はメルケル首相の支持率が下がり、受け入れ賛成と反対の割合が逆転し、動揺することもありましたが、実際には市民社会のもつ強靱な力によって持ち直すことができました。キリスト教の伝統と相まって市民のなかに難民保護に対する信念があること、また憲法にも難民保護の規定(庇護権)がありますから、市民の強い意志とドイツ社会がもつ包容力が100万人を超す難民の受け入れを可能にしたと思います。ドイツのキリスト教の伝統は、保守勢力に反イスラームの口実に利用されるという側面がありますが、他方で、教会アジールの運動(教会が、庇護認定を却下された難民らを保護し、当局と交渉して、滞在資格の付与や再審査を求める)にみられるように、リベラリズムと寛容の拠りどころでもあります。今回の難民受け入れでも、各地の教会が積極的にボランティア活動に取り組みました。
――ドイツの市民社会はどのように成熟していったのでしょうか?
1. 移民労働者(ガストアルバイター)受け入れからの学び
戦後すぐの時期の戦争難民や被追放民受け入れの際にも、犯罪者が増えるなどの反対論が一部にありました。やはりドイツ社会にも未熟な部分はあったと思います。キリスト教民主同盟などの保守的な勢力がある一方で、緑の党や社会民主党、左翼党などを支持するリベラル、ないしは左翼的な勢力があり、この二つの勢力がせめぎ合いながら社会が動いてきているといえます。例えばスウェーデンなどは社会民主主義政党が第一党で何十年も続くような国ですので、政治的地図が全然違うわけですが、ドイツの場合は二つの勢力がせめぎ合う中で、難民受け入れに対して賛成する人と反対する人が拮抗してきたと考えるのが正しいのではないかと思います。
ドイツでは各地の外国人局が、1980年代に在留資格の期限が切れる外国人労働者とその家族を出身国に返そうと、在留資格を更新しない措置をとりました。最終的に裁判で訴えることになり、家族を引き離してはならないとの判決が最高裁で出るなど司法や世論の力もあって、外国人労働者の定住が可能になっていった過去があります。他方で、移民や難民への排斥が一部のドイツ人たちの間で吹き荒れた90年代の10年間に、ネオナチや極右団体に襲撃されて殺された移民、障がい者、ホームレスの人は100人を超えます。
ドイツでは、50年代~60年代の移民労働者(ガストアルバイター)の時代から80年代~90年代の苦い体験を経て、外国人、難民とともに生きていくという意識が、時に苦闘しながら、失敗しながら着々と社会に浸透してきたといえます。メディアも彼らを支持するようになってきましたし、反対していた市民も難民を保護する運動を認知するようになってきました。こういったかたちで市民の理解が深まってきたといえます。
2. 「連邦ボランティア制度」を通じたボランティア精神の芽生え
もう一つ付け加えておきたいことがあります。ドイツはかつて徴兵制でしたが、兵役拒否者は学校や福祉施設等でボランティア活動をして代替する制度がありました。この制度を利用する人が圧倒的に多く、2011年に徴兵制が廃止されてからは、この制度は、月に5万程度の給料をもらい衣食住の世話を受けながら活動する「連邦ボランティア制度」として存続しています。今回の難民受け入れでも、ボランティア希望の市民が多く、市民にボランティア精神が芽生えています。
3. 移民・難民とともに勉強した世代が社会の中核へ
また、80年代~90年代に移民、難民の子どもたちと学校で机を並べた人たち、あるいは地域で交流があった人たちが今、社会の中核を担う30代~50代になっています。難民や移民の人と共有体験の多い彼らが難民受け入れにおけるぶれない軸になってきていて、それがドイツ社会の強みであると思います。
――最近、ドイツに到着した難民たちは、いまどのような状態でいるのでしょうか?(ドイツ語学習中?生活は?)
現在はドイツ語学習をしている人が圧倒的に多いです。職業訓練を始めた人もいますが、2~3年はかかります。ドイツでは大企業も競って、ドイツ語学習と職業訓練をセットにしたプロジェクトを難民の人たちに提供しています。このプログラムを成功して修了すれば、その企業で働けます。自治体の中には独自に、難民申請者全員に100時間のドイツ語学習を含む難民統合プログラムを提供するところも現れてきています。2、3年経った時点でドイツ語を身に着け、職業訓練した人たちがドイツ社会に速やかに労働市場統合されるどうかが、今後の最大の課題になるのではないかと思います。
――難民申請者中の方に対するドイツ語教育は以前からも行われていたのでしょうか?
さきほどお話ししたように、これまで長い間、難民認定された人たちはドイツ語学習を受けることができましたが、申請者は対象外でした。そのためNGOや福祉団体が代ってドイツ語学習の機会を提供していたものの、社会統合から取り残されることがありました。2015年の秋に法改正を行い、難民として定住の可能性が高いシリア、イラク、イラン、エルトリアの4か国の出身者に限っては申請者も統合講習を受けられるようになりましたので、一部は改善されてきてはいます。
また、私が自治体で聞き取りをしたところ、自治体で、福祉団体によるものに加えて、市民が自主的に集まってドイツ語教室を開いていて、なかには定員割れの教室もありました。社会統合政策の枠組みから外されがちな難民申請者であっても、こういったところでドイツ語の講習を受けられるようです。
――今後予想される社会統合における課題と日本がドイツから学ぶべきことは?
1. 市民がもつ「コンパッション」‐人の痛みや喜びを感じる力
一つ目は、ドイツ市民社会のもつ強靭さです。ドイツを含めたヨーロッパと日本の難民政策の違いは、市民一人ひとりのもつ、コンパッションの力にあると私は思います。日本語では「共感」「同情」と訳されることが多いですが、もっと対等なニュアンスがあると思っています。10年以上前にドーバー海峡を渡るトラックの中で多くの中国人移民が遺体で見つかったとき、ヨーロッパの世論は憤慨に沸き立ち、政府に行動を求める声が強まりました。メルケル首相の難民受け入れの決断も、オーストリアで放置された冷凍トラックの中から多くの難民の遺体が見つかった事件が深く影響しているとも言われています。
しかし、日本でも90年代に晴海ふ頭のコンテナの中で中国人移民が遺体となって見つかったとき、世論は沈黙を守り、人々も政府も無関心でした。今回のドイツの難民受け入れで市民が示した行動力の背景、そして難民申請者として受け入れた以上は、人間として最低限の生活を保障するという制度の背景として、国籍や肌の色は違っていても、同じ空気を吸い、同じように痛みや喜びを感じる人間に対する深いコンパッションがあると私は感じます。
100万人を超える難民の受け入れは、ドイツでも20年前には考えられなかったことであったのに、パニックにならずに冷静に対応してきています。ケルンの事件で一時的にパニックになりましたが、そこから脱して、2016年5月の公共放送の調査では、54%の国民が難民を受け入れても大丈夫との意見表示をしています。先ほどお話ししたように、このドイツ社会の強靱さは初めからあったものではありません。現在は、7月の難民の起こしたテロ事件で、世論には一時的に動揺が見られますが、私は今までの経験からみて、時とともに、徐々に収まると思います。先ほどあげたケルンの事件の時もそうでした。
2. 発想の転換‐難民は「恩恵」の対象ではなく、将来への「投資」
二つ目は、難民は恩恵の対象ではなく、社会にとって、将来に向けていい投資になると、発想を転換するということですね。これは行き過ぎれば難民の人たちを利用する、ある種、新自由主義的な発想をはらむ危険もあります。難民の方はモノではありません。単純に労働力として見なすのは私も反対ですが、人口減少、少子高齢化の問題を抱えているなかで、広い意味で将来への投資であると意識する必要があると思います。
3. 摩擦や衝突を恐れない姿勢
最後は摩擦や衝突を恐れない姿勢です。例えば難民が関わる事件が起きたらすぐにパニックになるのは、市民社会の脆弱さを表しています。偽装難民が多いと法務省がどれほど言っても、難民、移民の数は増え続けていくわけで、もう避けて通れません。問題に向き合い、日本の市民社会もドイツのように強靱化していく必要があって、そのためには経験を積まなければならないということです。受け入れる準備ができていないと言う人がいますが、それではいつになったら準備ができるのでしょうか。ドイツのように、まずはもっと難民の人たちを受け入れ、失敗を重ねながらも、ノウハウを蓄え、どのような受け入れ方や共生のしかたが望ましいのかを市民や行政が共有することです。それこそが「準備」です。摩擦があるのは当たり前ですから、それを恐れず乗り越えた先に、よりよい社会統合のかたちが見えるのではないでしょうか。
久保山亮氏プロフィール
専修大学兼任講師、立教大学・津田塾大学・横浜薬科大学非常勤講師。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。ドイツ・ビーレフェルト大学大学院博士課程修了。専門は国際社会学・比較政治。取り組んでいるテーマは、ドイツ・ヨーロッパの移民・難民政策、ドイツの非正規移民及び難民への支援など。
(2016年8月26日掲載)