2020.01.16
あの頃日本人になりたくて、毎日軍歌を聴いていた。大阪の右翼少年が「なにわのアメラジアン」になるまで
「アメラジアン」という言葉を知っているだろうか?アジア各地に展開する米軍基地の軍人・軍属と現地の女性との間に生まれた子どもやその子孫がそう呼ばれることがある。アメリカとアジアでアメラジアン。日本だけでなく、韓国やフィリピン、ベトナムなど米軍が展開する地域に数多く存在する。
かく言う私もアメラジアンの一人である。私の母は沖縄の祖母と米軍の祖父との間に生まれた。私は「クオーター」で、「アメラジアン」で、私が名乗り始めた「ローレンス」という名は、私が一度も会ったことのないアメリカ人の祖父の名である。
私は長い間、自分と似た出自を持つ他者と出会ったことがなかった。アメラジアンという言葉を使う使わないに関わらず、このような出自の子孫が日本にも少なくないはずだが、そのことをあえて言わない人や自分自身が気づいていない人も多い。そんな中、私が25歳の夏、初めて出会った人が黒島トーマス友基さんだった。
トーマスさんも米軍の祖父を持ち、今では「トーマス」という祖父の名を名乗っている。近しい境遇を共有する者同士、それぞれの過去について、これまで何度も飲み屋で語り明かしてきた。だからこそ一度はしらふで、本気で、自らを「なにわのアメラジアン」と呼ぶトーマスさんと向き合いたいとずっと思ってきた。
2019年の9月、まだまだ暑い大阪で、トーマスさんと再会した。彼の生まれ育った大阪の住吉で、彼自身の過去について、お父さんについて、おじいさんについて、そしておばあさんについて、じっくり話を聞くことができた。
ビリビリになった祖父の写真
――今日は改めて自分と似た境遇のトーマスさんからじっくりお話を聞きたいと思っています。よろしくお願いします。
ここまでお互いそっくりというか、似た境遇の人は初めてでした。レアっていうか、埋もれてしまっているというのが、実情だと思うんだけれど。
――そうですね、ほとんど同世代で、それぞれ祖父が米軍に関わりがある。
「アメラジアン」という言葉自体を知ったのは小学校三年生ぐらいでした。ちょうど沖縄の少女の事件があって沖縄がすごく注目されたときに、民放テレビのニュースでアメラジアンが特集されたことがあって、その映像を見た記憶があるんですね。でも、そのときは自分自身がアメラジアンだという認識はまったくなかった。「沖縄にはこんな子たちがいるんだ」ぐらいな感覚でした。
前にローレンスが「アメラジアン」という言葉に出会ってアイデンティティ・クライシスになったという話をしてくれたけど、僕はその言葉に出会う前にアイデンティティ・クライシスに陥りました。自分の成長だったり、学校での体験だったりとかで。
自分がアメラジアンだということに気づかないままずっと過ごしていたんだけれど、中学校の頃から体の変化がありました。例えば、体毛のことだったり、足の大きさのことだったり。
――中学校は大阪府の南部の方だったと聞きましたがどんな環境だったんですか?
同質でないものはタブーというか、同調圧力の強い環境だと感じていました。同和教育とか民族教育をすごい進めていたという学校でもなくてね。
実は中学校で一回カミングアウトしてるんですよ。二年生の冬に、国語の授業の三分間スピーチみたいなので、「4分の1の純情な感情」っていうタイトルでした(笑)。要は、おじいさんがアメリカ人で、自分は外国人というわけではないけどすごく違和感があるみたいな、そんなことを言ったんですよね。それに対する周りの反応が…、なにも無かった。
中学二年生だから大して深い内容ではなくて、ただ自分の思いをぶつけてるような文章だったとは思うんだけど、先生の反応もそんなに無くて、同級生も「せやからなんやねん、特別なんか?」みたいなね。特別にされたいと思ってたわけじゃないんだけど、すごい空振りっていうか、なんの反応も無かったなぁ…。
――勇気を出して打ち明けたけれど反応が無かった。
美術の時間で写真を使う課題があって、僕はルンルン気分でうちのおじいちゃんの写真を持っていったんですよ。その写真を見ながら課題をしていたら、クラスの一人がそれに気づいて、「お前何持ってきてんねん」、「調子乗ってんか?」、「いきんなよ」みたいな感じで言われて。
正直、言うてる意味がわからなくて。騒ぎに気づいたクラスメイト五人ぐらいがわっとやってきて、「英語喋られへんやんけ」、「かっこつけんなよ」みたいな感じでその写真を取られたんですよ。「返せよ」って言っても、「俺知らんで」、「あいつに渡したで」ってのらりくらり言われて、どこに行ったか分からなくなってしまった…。
僕にとっておじいさんの写真っていうのは、おじいさんとのつながりをすごく感じるもので。というか多分、大袈裟ではなく、おじいさんそのもの、みたいな部分もあって。
――それしかないから…。
そう、それしかないから。おじいさんを取られた、みたいな。でも、自分も幼いからさ、「うわ、お父さんに黙って持ってきた写真取られた、どうしよ…」って。でも、その写真が後日出てきた。自分の通学カバンから。
――あぁ…よかったですね。
うちの学校の通学カバンって、荷物が多いときにカバンの下のジッパーを開けたらバッと広がるようなやつで。写真がなくなってからもうだいぶ経ってたかな、雨の日で部活のものとか雨具とかで荷物が多くて、カバンの下をバッと開けたら、バラバラになった写真がバサバサ出てきて、すぐにあの写真だとわかった。「やべえ…」ってすごく怖くなった。
何ヶ月も経ってるから、友だちがどういう状態でカバンに入れたのかもわからない。いっそのこと彼らがぐちゃぐちゃにちぎっててくれたら救われるんやけど、もしかしたら自分が何ヶ月もカバンを投げたり、通学したりしてる間に、おじいさんの写真をビリビリと破いてしまっていたんじゃないか、おじいさんそのものを破いてしまったんじゃないか、それがすごく怖かった。今でも残ってる。
――むしろ自分が傷つけてしまったんじゃないかと思ってしまったんですね…。
あとはやっぱり英語の時間。「おまえ、英語しゃべられへんのやから外人ぶんなや」みたいな同調の圧力がすごく強いっていうのは感じてた。
英語に関しては、ちっさいときから、両親もそうやし親戚からも「お前はアメリカの血が入ってるから英語しゃべれるようになんねんで」ってずっと言われてた。ちっさい頃から言われてたら信じるやん。ステレオタイプって言ったらいいのかな、アイデンティティを保つ上での誇り、プライドになってた。でも実際には英語ができないっていうすごい挫折で。
日本を本気で愛すれば、「日本人」になれると思っていた
その辺から自分のアイデンティティについてすごく悩むようになった。自分ってなんなんやろと。それで僕は「日本人になりたい」というのがすごく先に立つようになってしまって。もしあのとき今のネットがあったら、僕は確実にネトウヨになってた(笑)。
僕が中学二年とか三年の頃って、アイデンティティとかマイノリティを取り上げる映画が結構ぽんぽんぽんと出たんですよ。例えば『GO』とか、窪塚がその後に出たのが『凶気の桜』っていう映画で。今度は逆にネオナチの日本版みたいな右翼団体を作ってやるっていう映画だったんだけど。
そんな映画を見てて、『GO』も良かったけど、『凶気の桜』の方がめっちゃ共感するわって。そっから見んでもええのに津川雅彦の『プライド』とか見たり。もう「日本、最高」みたいな。ははは。
そういうのを見て日本のことを考えたり、日本のことを「愛する」みたいなね。本当の意味での愛ではないけど、すごい浅はかな愛で、「愛する」みたいなことを本気でやれば日本人になれると思ってた。それで、日本人になったらもう僕はそんなアイデンティティなんかで悩まなくてもいい、むしろアイデンティティは日本だって。
――なんだか、裏返しのような。
裏返しだよね、そうそう。そのときは、僕はもう中学の時点で日本人になりたすぎて、ゴリゴリのウヨッキーな人間になってたから。うちのおじいさんに対する恨みとコンプレックスが乗っかって増幅して、外国人とか、外国そのものが許せないというね。要は自分のアメリカの部分を否定することで、日本人の部分を正当化しようとしていた。
図書館で軍歌のCD聴いてたりしてた。めっちゃ聴いてた。日本人は聴かないじゃない。日本人もしない「日本人ぽいこと」をしたら日本人になれる、そう思ってた。軍歌って勇ましいやんか。聴いてると高揚してくるのね。高揚してくると余計に勇ましいこととか言っちゃったりするの。だから、あのときネットがあったら完璧にネトウヨになってたし、絶対あのデモにも行ってたと思う。自信ある。
トーマスさんは、中学校時代について「自分のルーツに関しては言っても意味がないことを学んだ。理解してくれる人は誰もいなかった」と語った。そして中学校三年生になると不登校になったという。その後トーマスさんは単位制の高校に入学する。その高校はたまたま外国籍生徒への特別枠がある学校で、外国籍の生徒がとても多かった。
高校進学でも大変だったし、家の中も荒れてたから、親にも相談はしてないよね。「僕は日本人、外国人は嫌い」、そうやって外国人を否定している状態で高校に入って。そしたらね、外国人の子から「あなた何人?」ってすごい聞かれて。そんなこと今まで言われたことがなかった。
外国人の子たちは外国人同士で話しかけやすい、その子たちから見るとどうやら僕は日本人離れしてるようだと。「何人ですか?」、「いや、日本人やし」って。おじいさんがアメリカ人っていうのは絶対言わない。自分の中で否定してるからね、「俺のおじいさんはいないんだ」って。
「論破」できないもの
トーマスさんは高校入学からすぐに再び不登校になった。「何人?」と自分のルーツが暴かれるのも嫌だった。母親が駅前で営むスナックの二階で暮らし、地元の友達と過ごした。2年目に高校へ復帰したが、やはり誰とも会話しない日々を過ごした。外国人とも日本人とも話したくない――そんなときだった、学校で唯一話すことができた森山先生から呼び出されたのは。
森山先生が僕を呼び出して、「在日外国人の子らが集まる合宿が滋賀であるから市川くん今度行かない?」って言ったんです(「市川」はトーマスさんの旧姓)。何を言うてんねんこの人は、それが嫌や言うてんねんて思いましたよ(笑)。
でも断って学校でただ一人だけ喋れる先生との糸が切れてしまうことが怖くてね。誰とも喋らないのは苦痛だから。それで結局断れなくて、滋賀の近江八幡に行くことになりました。ゴールデンウィークあたりだったと思うんですけど。
当日はもう、行く道中から眉間にすごいしわを寄せて、「そもそも何で在日外国人の人が集まる必要があんねん」、「そもそも日本からおらんようになったらええやんけ」って思ってました。「絶対論破したんねん」って感じですね。
着いたら10人ぐらいかな、パラグアイのルーツ、在日コリアン、フィリピン系、中国の子もいて、残留孤児と結婚した中国人の連れ子の子もいたり、在留資格が認められなくて今裁判してるっていう子も来てました。外国人教育に関心を持っている全国の先生方、その生徒の高校生とたまに中学生とが100人弱くらい集まって討論したりする大会が次の夏休みにある、その実行委員会の事前合宿でした。
最初はね、「論破してやるわ」みたいな感じでいったんだけど、自己紹介して、アイスブレークで料理をして…。普段全然喋らない生活をしてたし、そういうの面白いじゃないですか。水餃子を中国の子たちとつくって、誰彼なしに「ハズレ作ろうや」ってなって、水餃子の中に皮をもう一個入れて具なしのやつを作ったりね…。中国の子らも、「ええ、やばいって!」ってなったりして、まあ楽しいですよね。「まあ今は楽しんどいたるわ、あとで覚えとけよ」って感じで(笑)。
夜になって自分が置かれてる状況について自己紹介の流れでやっていくんだけど、普通に自己紹介を回す子もいれば、急に「ちょっと聞いてほしいことがあんねん…」って、自分が受けてきた差別やいじめのことをずっとしゃべってる子がいたり。いじめの話がなんかねえ、聞くに耐えない話なんですよ。学校帰り、家の前で待ち伏せされて、連れて行かれてボコボコにされるとか…。
他の子は、バイトをし始めて日本人の子と一緒に働いてるけど、自分だけ時給500円で計算されてた…。そんとき大阪は最低賃金が703円の時代やったんです。すごい腹立つけど、自分は言葉がなかなかできない部分もあるし、すぐバイトが見つかるわけでもないし、生活がどうしても苦しいから私はこのバイトやり続けんねんって。
高校生で在留資格が無くて国と裁判してるとかね…。そもそも、自分が論破できる、できないとかの次元の話じゃないんですよ。実際にそれが起こって、実際にその子たちが泣いてるわけですよね。言ってる方も泣くし、聞いてる方も泣く。家族と会えないって言ってる子もいた。思いっきり頭をどつかれたような衝撃を受けました。
「トーマス」って呼ぶわ
――トーマスさんはどんなことを話したんですか?
ただ僕の生い立ち、おじいさんのこととか、すごくコンプレックスで、高校も行けなくなったって。そのときはまだなんも整理がついてない状態だったけど、自分も話さざるを得なかった。
そうしたら、「アメリカの名前とかないの?」って在日コリアンの子二人から聞かれた。「うちのおじいさんトーマスっていうらしいね」って言ったら、「トーマスいいやん、トーマスって呼ぶわ」って。人生で今まで言われたことない「トーマス」って名前で呼ばれた。
普段の僕だったら、「何人ですか?」って言葉にもすごく腹が立ってたんだけど、その子たちから「トーマス」って呼ばれたときになんだか嬉しかったしホッとしたんですよね。すごくスッキリするし、安心すると思った。
その夜は寝ずに恋バナも政治の話もしました。すごい密な関係になって、連絡先も交換した。大阪に戻って、事前合宿であったことを咀嚼しながら、いろんなことを考えました。
――また日常に戻った。
なんやろ、自分のことが情けなく思えてきたんですね。参加してる子の一人は見た目で外国人てわかる子やったし、話せば外国人ってわかる子もいた。そもそも在日コリアンの本名しか持ってない、通名を持ってないから本名と向き合っている子もいたし、逆に今から本名宣言しようと思っている子もいたし…。
要はそれぞれ自分のルーツと向き合っていた。自分から自発的に向き合っているのか、向き合わざるを得ないのかという違いはあったと思うんですけど。ただ、向き合った結果、いじめを受けたり、差別を受けたり、色んなことがあって、涙を流してる子たちがいました。
それで、自分のことを振り返ったときに、中学校でのことは今だったらいじめだってわかるんだけど、当時はいじめを受けてたとはそんなに思ってなかった。ただ自分のルーツがばれることで嫌なことになってしまうかもしれない、いじめや差別に遭ってしまうかもしれない、そういう予測があって、今までルーツと向き合うことを避けてきた。
ずっと、楽な方、楽な方に流れてきた。そのことを彼らに対して素直に申し訳ないと思った。彼らとは三ヶ月後の本番の大会でまた会って一緒にやらないといけない。それまでになんとか、自分の後ろめたさみたいなものを解消できひんのかなって思っていました。そのときに、合宿でできた友達で日本と外国の名前を組み合わせた人がいて、その名前を思い出した。名前ってああいう形もあるんやなって。
それで、「市川友基」でずっと生きてきた名前を、これからは「市川トーマス友基」で生きていこうって思ったんです。「トーマス」って父親の方のおじいさんの苗字だから、自分の名前に「トーマス」があっても全然おかしくないんや、じゃあ「市川トーマス友基」って名前で生きていきたいなって思った。
こういう名前で生きていきたいっていう前向きな思いもあったし、逆にこういうことをせんとなかなか実際何も変えられへんなという思いもありました。「市川友基です、初めまして。いや、僕のおじいさんアメリカ人なんですよ」って急に言うのはおかしいじゃない、文脈的に。だから、決断には自己紹介の時点でちゃんとルーツもわかる、そこから逃げられないようにするっていう、ちょっと後ろ向きな理由もあった。合宿から帰ってきてすぐ、一週間ぐらいで決めたかな。
それを先生に言ったら、めちゃくちゃびっくりされて、「まじで!」、「め、め、めっちゃええやん!」って(笑)。彼らからしたら、そんなすぐに成果がでると思ってなかっただろうから、外国人嫌いだからって言うてた人が、急にね。
沖縄と「仲間」
――トーマスさんは高校卒業後に大学で沖縄を選びましたよね。
最初のきっかけは、高校生の感覚ですごく単純に「基地が見たい」と思ったんです。大阪では基地が近くにないから。基地とか軍隊って自分の中でネガティブな部分もあるんだけど、ルーツとして見てみたい、感じてみたいという思いがすごく強かった。
高校生の時にバイクで福井の方に写真を撮りにいったりしたけど、舞鶴の街を見てみたかった。自衛隊の基地の街で規模的にも大きくて、まあ擬似的な意味で、街に軍隊があるってこういう感じなんだって。
海兵の格好した人が普通に街で自転車こいでたり、バイクをちょっと走らせればフェンスとか施設があったり、生活の中に身近に基地があるっていう感覚。住吉も基地があったころにはこういう感覚で動いてたのかなって思ったし、今度は米軍の街ってどんな感じなんだろうって。まず基地を見てみたいっていう気持ちがあって、そこから自分の「仲間」に会いたいっていう気持ちがすごく出てきた。
――「仲間」ですか。
「トーマス」って名前をつけるようになった頃にすごく考えてたんだろうね。それで良かったのかどうかの迷いも含めてずっと考えていて、「自分はどんなカテゴリーにカテゴライズされるのか」とか、「自分に何か当てはまる固有名詞がないのかな」ってすごく考えていた。
そのときにさっき話した小学校三年生ぐらいの頃の沖縄の映像のことを思い出したんです。テレビで「沖縄ではアメラジアンが多い」っていうのを見たよなあ、「ちょっと待てよ、俺はアメラジアンじゃねえか」って。
そう思い立ったとき、僕は無茶苦茶嬉しかった。そのときのことはよく覚えていて、朝ごはんを準備していてトーストを作っていたんですよ。そんときにハッと思いついて、その場でガッツポーズしたい気持ちになった。
友達にも「俺アメラジアンやねん、アメラジアンって知ってる?」みたいな、訳わからんメールをすぐさま送ってた。向こうも「あ、そうなんや、おめでとう」って、反応に困ってるっていうか(笑)。
喜びから入ったから「アメラジアン」という言葉に対する執着と愛着はすごかったんだよね。もともと自分とは何かとか、支えになるものをずーっと求めてたわけだから。それから「仲間に会いたい」っていう気持ちがすごく強くなってきた。
――自分と同じ「アメラジアン」に会いたいと思ったんですね。
その頃、大阪で在日コリアンの友達10人と俺一人でカラオケに行ったことがあって。そこで誰かが「イムジン河」を入れたら、今まで一緒にやいのやいの氣志團とか歌ってた連中が、急に肩組み出して歌い出したんですよ。全員が歌詞を覚えてるわけじゃないんだけどね。
二人ぐらい知ってるやつが歌って、うろ覚えのやつがそこに入って、全然知らないやつも肩組んでね。そんな中で俺は肩組めないじゃん。肩組んでるのを見て、いいなあって思いながら。変な光景だよね、10人が肩組んで、一人がこうやって見ていて。その姿を見ていて、すごく羨ましいな、眩しいなって、俺もやってみたいなって思った。
もともと「同胞」とかさ、横のつながりとか、もしかしたら軍歌とかナショナリズム的なものにバーっと偏ったのにもそういうのを求めたところがあったのかなと思う。そういう仲間とのつながりを俺もやりてえなって、それをやりにね、「アメラジアンスクール」に行ったんですよ。
――ついに沖縄に行くんですね。
高校三年目の終わり、友達二人を、「沖縄行きたいから一緒に行かないか」って誘いました。その頃買った車をフェリーに乗せて行ったんですよ。二週間ぐらい、本島も離島も含めてぐるぐる周る旅だったんです。もちろん基地も見たし、基地でバザーをやってて中に入ったりもした。沖縄の基地ってむちゃくちゃでかいんだなって。
それでアメラジアンスクールに見学に行くためには誰にコンタクトを取ればいいかってことを調べて、琉球大学の野入直美先生にたどり着いた。そして、野入先生が全部段取りしてくださって、アメラジアンスクールに行きました。
そのときは昼休みだったんだけど、子どもたちが人懐っこいじゃん。「どっから来たの?」ってバーっと囲まれた。囲まれるまで俺は肩組んで、アメリカの国歌でもなんでも歌ってやるって気持ちでいたんだけど、瞬間的に理解したよね、できねえなって。そういうのじゃねえって。
そもそもアメラジアンって「民族」じゃねえんだって。ははは。行く前に気付けよって話なんだけど。圧倒的リアリティだった。あ、みんな肌の色が違って、髪の色も違うんだねって。肩組もうと思って行ったんだけど、そうじゃないっていうのがわかった。でもそれは「挫折」じゃないんだよね、「理解」なんだよ。
あんときの涙はね、わけわかんないの。自分の夢が崩れるっていうのと、「理解した」っていう喜びと、新たにやること探さなきゃっていう焦りと、ごっちゃになって、「やべえ、俺、泣く」って。とりあえず顔洗おうと思って、顔洗いに行ったんだけどね。
学生証事件
――その体験を経て沖縄国際大学への進学を決めたんですね。
大学の学生証事件っていうのがあってね。これまで色んな出会いがあって「トーマス」に変わりました、将来は日本語教師の資格も取りたいですって、そういう内容でAO入試で出してるんですよ、沖縄国際大学に。それで、素晴らしいですね、みたいな感じで合格して入学したわけです。
そうしたら、学事科から呼ばれて、「市川トーマス友基って戸籍名と違いますよね」って話をされた。「トーマスは学生証に入れることができない」、「願書とかも市川トーマス友基で出してますけど全部書き直してください」って言うんですよ。「書き直すってどういうことなんですか」って聞いたら、「トーマスに二重線引いていただいてハンコ押してくれたらいいです」って。
まじか、あり得ん、みたいな。一番悔しかったのがね、僕ははっきりと見たんです。学生証が二枚あった。「市川トーマス友基」と「市川友基」の二枚。それで「戸籍名と違いますよね」って一番最初に確認して、「市川トーマス友基」の方をピッと引っ込めたんですよ。
「いや待ってくれ、変えてることは言ってる」、「それで受験も通ったんだ」と。だからハンコも押せないし、トーマスに二重線を引くって、どういうことだと。相手もそんな反応が来ると思っていなかったような表情で、「え、ダメなんですか」って。ダメもなにもないよ。
結局は市川友基の学生証しかもらえませんでした。書類は書き直さなかったけど、学生証はそのまま。理解をしてくれる先生もいて「とりあえず状況をまとめて出してくれ、それを教授会に出してみる」と言ってくださったんですけどね。
そのときは僕も気が立ってたから、なんでそれを変えるために自分がアクションを起こさないといけないのかと固執して出さなかった。一回は二重線を引いて提出してその上で戦えと言う先生もいたんだけど、二重線は引かない、引かずに死ぬって。
高校では学籍の出席簿だったり、卒業証明証書も全部戸籍名と違うのでもらえたんですよ。最初は卒業証書だけは無理だって言われていたんだけど、その頃の校長先生が教育委員会の人権畑の人で介入してくださった。無理だと思ってたのに、卒業式の演台で受け取ったら「トーマス」やん、ありがたいなあと。その半月後に大学でこれですよ。
その後、横浜で飲んだときに、ローレンスが学生証を見せてくれたんですよね。自分はこうやって学生証にいれてもらえましたよって。
――僕は戸籍名に入る前だったんですけど、学生証に入れてもらえたんですよね。
嬉しいことでね、そのときにローレンスが僕のことが載った論文や記事とか色々なものを見て「考えて入れたんです」って話をしてくれた。飲みながら、だんだん酔いもまわりながら、フラッシュバックのように自分の経験を思い出しながら、「これな、これな…俺はできなかったんだよ」って。でも「お前ができて本当に良かったよ」っておいおい泣いて、それで飲みすぎた(笑)。
僕は「なにわのアメラジアン」
大学時代を過ごした沖縄から戻ったトーマスさんは、その後祖母と祖父とが出会った大阪で再び暮らし始めた。自動車の整備士、そして郵便の配達員として勤めたあと、トーマスさんは大阪で在留外国人支援の現場に携わるようになった。現在は「とよなか国際交流協会」で豊中市に暮らす海外ルーツの人々や子どもたちのための支援活動を展開している。結婚をして、姓も「市川」から「黒島」に変わった。
「アメラジアン」といえば、報道でも研究でも”沖縄のこと”とされる場合が多い。そんな中、トーマスさんは自らを「なにわのアメラジアン」と呼ぶ。大阪市の中心部、なにわの地で生まれ育ったアメラジアンだからだ。
なぜ「なにわ」なのか。理由はとても単純で、ここもかつては「基地の街」だったからだ。大阪市住吉区にある大阪商科大学(現・大阪市立大学)の敷地は、戦時中は日本海軍の大阪海兵団によって接収され、戦後には米軍に接収されていた。そして、トーマスさんのおじいさんはまさにその「キャンプ・サカイ」に所属していた兵士だったのである。
一人の人生には、数ページでは語り尽くせない背景がある。一人称で語られる生き様、それはときに歴史的に記録され、ときに政治的に記述される。その一方で、まったく語られずに忘れ去られてきたこともある。むしろその方がずっと多い。
人の生はだれしもが平等に記録されるわけではない。しかし、公式の記録には残らない記憶であっても、それを語り継ぐ者たちが消えない限り次の世代へと伝えられ続ける。かつては「混血児」と呼ばれ、1990年代には「アメラジアン」と呼ばれるようになった人々。その記憶は、これからもこの日本社会の中で着実に受け継がれていくに違いない。
戦後すぐのある日、大阪の地で二人が出会った。市川信子さんとギル・トーマスさん。二人の息子であるたけしさんはやがてトーマスさんの父となり、トーマスさんは直接会ったことのない祖父の名前を受け継ぐことを決めた。そして、いまやトーマスさん自身が父となり、二人の子どもにも「トーマス」の名は受け継がれている。
私はトーマスさんに家族の歴史をもっと聞きたいと思った。おじいさんのこと、おばあさんのこと、それからお父さんのこと。トーマスさんがこれから話すこと、それはきっとこれまで十分に語られてはこなかった、戦後日本社会の歴史の一部であるだろう。(後編記事へ続く)
CREDIT
下地ローレンス吉孝|取材・執筆
田川基成|取材・写真
望月優大|取材・編集
(1/16 16時修正:映画『凶気の桜』のタイトルに誤字があり修正しました)
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