2018.01.23
移民でゲイであるという経験から見えるもの。少数派内部の壁はいらない。同じを見つけて対話を。
ローレンさんの目に日本のLGBTコミュニティはどう映ったか
東京のとあるカフェで待ち合わせたのはローレン・ファイクスさん。アメリカ出身で日本在住、自らゲイであることをオープンにしながら、オーストラリアで始まったインターナショナルなLGBTコミュニティ「フルーツインスーツ(以下フルーツインスーツ)」の日本版を立ち上げた方だ。
フルーツインスーツは、ビジネスプロフェッショナルのメンバーが多く属する多国籍のLGBTコミュニティ。日本人も外国人も所属し、定期的なイベントやオンラインなどを通じての情報共有、他団体のための募金、若者へのメンタリングを活動のメインとしている。
私自身もゲイの当事者として普段からLGBTについての情報を発信しているのだが、「LGBT x 移民」というテーマでこれまで深く考えてきたことはなかった。
1990年代に初めて日本を訪れたというローレンさん。 日本で暮らす移民として、そしてゲイとして、彼の目に日本の社会、そして日本のLGBTコミュニティはどう映っていたのか。色々と聞いてみたいと思う。
自分のために自分らしく生きる
ーーローレンさん、今日はよろしくお願いします!早速ですが、ご自身がゲイであるということを認識した頃について教えてくれますか?
私はミシガン州のフリントというところで育ちました。
自分が男性の方が興味があるなと気がつき始めたのは14〜15歳の頃かなと思います。まだはっきりとゲイだという認識があったわけではありませんが、女性には興味が持てなくて。
そのあと17歳でハーバード大学に進学しました。寮に住んでいたのですが、ルームメイトの男性3人とパーティに行くと大体いつも女の子の話になるんですね。そのときに「僕はゲイなんじゃないかな」と強く感じるようになりました。
そこで、まずはルームメイトにカミングアウトしました。ハーバード大学のような環境だったから理解してもらえるのではと思ったんですね。実際彼は「全然OKOK」とすんなり受け入れてくれて、今でも仲の良い友達です。
ーーそうだったんですね。
ただ、自分以外のゲイの友人たちのほとんどはまだ周りにカミングアウトしていませんでしたね。
当時は80年代の後半で、ちょうどエイズが話題になっていた時期でした。そして、当時はエイズとゲイが強く結びついてイメージされていたんです。また、セックスに関するトピックを話すこと自体がタブー視される風潮もあった。でもそんな中でも僕は「SAFE SEX」と書いたTシャツを着て歩くようなところがありました。周りから変な目で見られたりもしたけれど、そういうオープンな性格だったんですね。
ーー周りが躊躇する中でローレンさんがカミングアウトできたのはなぜだと思いますか?
自分がアフリカ系アメリカ人だから「差別を受けるということがどういうことなのか」をすでに身をもって知っていたというのはあると思います。
セクシュアリティは隠せるものだけど、人種は隠せない。その経験があったから、「自分のアイデンティティが他人から好かれるものなのかを考える」よりも「自分のために自分らしく生きる」方が大事だということに、早くから気づくことができていたのだと思います。だからゲイについてカミングアウトすることができた。
差別は消えません。暗い森のなかには危ない場所がいっぱいあるかもしれない。その中で安全で光のある道を切り開いていく。「差別の中でも自分の道を切り開くしかない」ずっとそう思っていました。
家族へのカミングアウト
ーー家族にも同じ頃にカミングアウトしたのですか?
いえ、家族へのカミングアウトはもっと遅くて23歳の頃です。
友達にカミングアウトする場合には、もしすごい悪い反応が返ってきたとしても縁を切ることができます。けれど親との縁はそんなに簡単に切れません。友達より親にカミングアウトするほうがずっと怖かったです。
親にカミングアウトするなら、なるべく大きくて幸せなことが起きるタイミングにしたいと思っていました。そこで、大学の卒業や、奨学金をもらえたこと、日本の大学院への留学ができることになったこと、こういう良いニュースと組み合わせてカミングアウトしようと考えました。良いニュースがたくさんある中でカミングアウトのことは霞んでもはや気づかれないかも…みたいな(笑)。
最初は家族で行ったレストランでカミングアウトしようと思っていたんです。ただ、もしそこで家族の反応が悪かったら…と考え直して、家に帰ってから言うことに変えました。
家に着いてパパに「ちょっと言いたいことがあります」と伝えたら「じゃあちょっとママも呼んできて」と言われたんです。そして、パパは「僕はもうローレンが言いたいことを知っているよ。だってさっきも言おうとしてただろ」って言うんです。驚きました。
ーーお父さんは気づいていたんですね…!
ママも呼んで自分がゲイであるということを二人に伝えました。するとママはキリスト教の信仰が篤いのでとても驚いてしまったんです。ただ、パパのほうが理解をしてくれました。
パパはまず最初に「Are you happy?」と私に聞きました。そのあと「Are you safe?」とも聞いたんですね。とても驚きました。と言うのもそれはパパがエイズのニュースをしっかりフォローしていたということを意味していたからです。
パパは最後に「Don’t wear your sexuality on the sleeve(服の上にセクシュアリティを飾らないで)」と私に言いました。それは、僕のことを心配して「自分の身を危険に晒すような活動をしないで」という意味の言葉だったんです。親の気持ちだから仕方ないですよね。
ーー今とは社会の状況も違いますもんね…。
でも23歳の僕は若かったので、自分のセクシュアリティのことを言うならみんなに言いたかった。誰かには言うけど別の誰かに言わないということが難しかったんです。
私は、社会との付き合い方は大きく3つに分けられると思っています。それが、サイレンス(silence)、シグナル(signal)、ノイズ(noise)です。
サイレンスは文字通り何も言わない状態。シグナルは例えば「奥さんと一緒にパーティに来ますか?」と聞かれたときに「行きますよ、〇〇(男性の名前)と一緒に」と答えるなど、会話の中で自然にほのめかしていくこと。ノイズは変化を起こすために平等を明示的に要求するようなことを意味します。
特に若い人たちには、LGBTに限らず、自分のアイデンティティや考えていることを社会と調整する必要が出てきたときには、この3つの区別を意識してみてほしいと思っています。
ーーローレンさんはノイズを起こしていたということですね。
そうですね。
もちろんそれぞれの個人の素質は違います。できることとできないことがある。
ただ多様なセクシュアリティがあるということを人々に理解してもらうためには、何らかの形で考えさせる、対話を引き起こすことが必要です。そして、クリティカルマスに到達したときにようやく変化が起こります。逆に言えば、そこまで行かなければ何も起きません。
自分は最初にアフリカ系アメリカ人として自分の国で差別にあってきました。だからゲイであることについても「何を言われても気にしない」という振る舞いができる。ノイズを起こして差別されたとしても頑張るしかないんです。そうしないと差別についての対話も始まりません。
ただ、今は自分もだいぶ歳をとったから、自分のセクシュアリティについて明らかにする必要がないと思うときは言いません。若い頃のローレンの方が強かったかもしれないですね(笑)。
新宿二丁目で経験した分断
ーー日本に初めて来たのはいつ頃ですか?
初めて来たのは大学生のときですね。1990年の6月でした。どうしても日本に行きたくてサンディエゴにあるソニーの工場で働いてお金を貯めたんです。そのお金で飛行機のチケットを買って日本に来ました。
新宿の靖国通りにある旅館に泊まりました。ある夜に近くの通りを歩いていたらたまたまそこが新宿二丁目の「仲通り」だったんです。ただ当時の自分は新宿二丁目がそういう場所であると全く気付かなかったんです。初めての日本だったから何も知らなかった。
ーーまだバブルの時代ですね。新宿二丁目の存在を意識して初めて行ったのはいつ頃ですか?
1995年の頃ですね。ハーバード大学では比較文学を専攻して大江健三郎についての論文を書いたりしていたのですが、大学を卒業してから東京大学の大学院に留学することにしたんです。その時に初めて意識して新宿二丁目に行きました。
その頃はみんなオープンマインドで、日本人と非日本人の壁がまだあまりなかったような気がします。まだ街に外国の人が多くなかった時期だったからかもしれません。お互いに友達になりたいというか、好奇心が強かった。もちろんマッチングアプリもなかった時代なので、新宿二丁目で直接会って話していたんです。
ーーなるほど。その後の新宿二丁目では何か変化がありましたか?
1990年代に少しずつ外国人への差別が見られるようになりました。
例えば、あるバーが「外国人はお断り」というような張り紙をし始めたんです。理由を聞くと言い訳をするんですね、「外国人は日本語ができないから」と。
でも「ビール」は「ビール」だし、「ワイン」は「ワイン」ですよね。それに、お客さん同士が話す場所なのにお店の人が入れない人を決めるのはおかしいですよね。「なんであなたが外国人を入らせないようにするの?」と怒りました。張り紙を無理やり剥がして喧嘩になったりもしたんです。
そのあとも少しずつ「外国人はダメ」っていうスタンスのバーが多くなっていって。その前は日本人も外国人もゴチャゴチャだったけれど、次第に「XXX」や「YYY」など外国人だけが集まるバーが増えていきました。いつの間にか新宿二丁目のなかで日本人と外国人の間の分離が進んだんですね。
(編集部注:「XXX」と「YYY」は具体的な店名ですがぼかしています。以下同様。)
ーーなるほど…「XXX」や「YYY」は今でも外国人のお客さんが中心のイメージですが、とはいえ日本人も多くいる気がします。
今はそうですね。前より差別や分断は感じにくくなっているかもしれません。ただ、今でも日本語がわからない観光客や移住者にとっては壁があると感じられると思います。最近できた「ZZZ」という店はアメリカや台湾などのスタッフが多いというのもあるかもしれないけど、日本語がわからない外国人に対してもすごくフレンドリーで大好きです。
LGBT内部にある日本人と外国人の壁を壊したかった
ーー日本では新宿二丁目以外にどんなLGBTのコミュニティがありましたか?
日本人によるLGBT関連のイベントやコミュニティは、招待制だったり、匿名だったりと、とにかくクローズドな形が多かったです。今のようにFacebookもないので、どこでどんなことが起こっているかわからない。わかったとしても外国人はなかなか入りづらいというか、壁があったように思います。
ーーここでも日本人と外国人の間に壁があったんですね。フルーツインスーツを日本で立ち上げたことにもつながりますか?
フルーツインスーツの始まりは1996年のオーストラリアです。オーストラリアで「フルーツ」は同性愛者を表す少し差別的な意味を持った言葉です。この意味を逆手にとって「スーツを着たフルーツ」という名前にしたんですね。「スーツ」にはビジネスやプロフェッショナルといった意味があります。
90年代の日本にも新宿二丁目はありました。ただやはりそこで話されることは「夜の話」が多くて。僕はもっと仕事とか他の話もしたかったんですが、そういう形で集まれる場所やつながりがありませんでした。
私はオーストラリアに住んでいた時代もあったのですが、2004年に友達に誘われて初めてオーストラリアのフルーツインスーツに参加しました。そこで友達がたくさんできたんです。
日本にもこういうつながりがあれば良いなと思いました。「ストレートであろうとゲイであろうと、人種や言語が何であろうと、参加者が好きなだけ話して好きなだけ交流できるオープンな場」、これをつくろうと思って日本でフルーツインスーツを立ち上げることにしたんです。
ーー日本での立ち上げは2014年でしたよね。
そうですね。
日本でのフルーツインスーツの立ち上げにも間接的につながっている大きな変化として見逃せないのがFacebookです。実名がわかり、その人の友達一覧を見ればどんなコミュニティに属しているのかまでお互いなんとなくわかります。それによってだいぶコミュニケーションがしやすくなりました。
また、言語という意味でも、話し言葉では早くて理解できなくても、Facebookの投稿だったらお互いゆっくり読むことができます。わからない言葉も調べながら読むことができる。それによって、LGBTに限らず言語や国籍を超えたコミュニケーションが増えたと思います。イベントにも一緒に参加できるようになりました。
ーーSNSの登場はマイノリティにとって本当に重要なターニングポイントでしたね。
「違い」ではなく「同じ」を見つけて対話を始める
ーーフルーツインスーツのメンバーはどんな方達なのですか?
今のメンバーは約2,000人います。8割がLGBTで2割がストレートです。6割が男性自認で、3割が女性自認。日本人が半分、多国籍の移住者が半分です。
フルーツインスーツがきっかけでこれまで6組もカップルができました。とても嬉しいです。たくさん友達ができたり、恋人ができたり、コミュニティとしてはそれが一番大事だと思っているんですよ。
ーーうんうん。
フルーツインスーツでは、今年、LGBTのオーナーによる企業のネットワークをつくるという目標を掲げています。花屋から弁護士まで、LGBTの人たちが関わっている色々なビジネスを集めてお互いに助け合っていく。若いLGBT起業家の支援もしていきたいです。
また、LGBTの人たちが働く場所という意味でも大事だと思っています。「ゲイであることが理由で今いる会社でなかなか自分らしく働けない」と思っている人がいるとしますよね。そんな彼もゲイの人がオーナーの会社に移れば働きやすさが変わるかもしれません。
ーー確かにそうですね。
それに加えてフルーツインスーツでは日本のLGBTコミュニティにおける言語や国籍の壁を壊すことを意識して活動しています。例えばこういうことです。
ディナーパーティの場で参加者が何らかのテーマでプレゼンテーションをすることがあります。日本でLGBTの活動をしている方たちに話してもらうこともある。その時に「英語と日本語のどちらで話せばいいですか」と聞かれたことがありました。私の答えは「Pick One!(どちらか一つを選んで!)」です。日本語でプレゼンするなら英語の資料を一緒につくって配布するし、頑張って英語でプレゼンするなら私が横に立ってしっかりサポートするようにします。
職場でのカミングアウトの仕方など、悩みは共通している。でもそれに関する情報が国籍や言葉で分けられてしまうのはもったいないですよね。みんな同じ場所に住んでいる同じ人間じゃないですか。この壁を壊していきたい。
日本では誰かと別の誰かの「違い」に着目することが多いなと感じることがあります。むしろお互いに違うことは大前提、そのうえでどこが「同じ」なのか、共通点を見つけてそこから話し始めることが大事だと思うんです。
ーー違いを前提に同じを見つける…。ローレンさん貴重なお話を聴かせていただきありがとうございました!
取材を振り返って
LGBT、特にゲイコミュニティの中でも、国籍やルーツによる分断があり、日本人と外国人の棲み分けが進んだ歴史、そしてその分断を繋げるためにフルーツインスーツを立ち上げたというローレンさん自身のストーリーを伺うことができた。
さらに、マイノリティに限らず、自分の考えを主張したり、社会の中で対話を引き起こすためのサイレンス、シグナル、ノイズという考え方のフレームワークは、私自身非常に大きな学びになった。
「人種は隠すことができない。けれど、そこで差別がどういうものかわかっていたから、ゲイであることをカミングアウトできた」というローレンさんの言葉が胸に残っている。終始明るくインタビューに答えてくれていた背景には、ローレンさんが乗り越えてきた様々な経験があるのだろうと想像する。
私はこの日本が国籍や性的指向、性自認が何であれ、様々な人々を暖かく迎え入れることができる場所であってほしいと願っている。自分にできることから始めていきたいと思った。
コラム:国際同性カップルの在留資格
「LGBT x 移民・外国人」というテーマに付きまとう問題が婚姻(の可否)と在留資格に関わる問題だ。
世界で最初に同性婚を認めたのが2001年のオランダだ。そこから少しずつ同性婚を認める国が増えていき、現在は24ヶ国まで増えている。逆に言えば20世紀にはどの国でも、そして同性婚がない国では現在でも、同性間の国際カップルが同じ場所で暮らすためにはそれぞれが当地の在留資格を得る必要がある。異性間の国際カップルとの大きな大きな違いである。
世界を飛び回ってきたローレンさんもこの問題に何度か直面したそうだ。
日本でオーストラリア人のパートナーと出会ったローレンさん。のちに彼がニューヨークに転勤になった際に、パートナーも一緒にアメリカで暮らすには個別にアメリカの就労ビザを取る必要があった(当時はアメリカでも同性婚ができなかった)。その後ローレンさんがシンガポールに転勤したときも同じ問題に直面した。
ローレンさんはこう話す。「こういう話はいつでもどの国でもあるんです。たとえ一緒にいたいと思っても、就労ビザが取れなかったら一緒にいられなくなってしまいます。」
現在の日本には同性婚など同性間のパートナーシップを認める法律はない。では、同性婚が可能な別の国で結婚した同性カップルの日本における在留資格は現在どうなっているのだろうか。昨年12月に明治大学で行われたシンポジウムに参加して学んだことを元に現状を簡単にまとめてみようと思う。
シンポジウムで登壇された丸山由紀弁護士によると、同じ「外国で同性婚をしたカップル」であっても、二人の国籍の組み合わせで日本における処遇が異なっているという現状があるそうだ。大きく分けると「非日本国籍同士の同性カップル」と、「非日本国籍x日本国籍の同性カップル」とで処遇が異なる。
まず、「非日本国籍(=外国籍)同士の同性カップル」であれば、カップルの一方が就労など何らかのビザを取得していればもう一方は「特定活動」のビザがおりる可能性がある。しかし、「非日本国籍x日本国籍の同性カップル」の場合にはこの「特定活動」のビザがおりないのが現状だというのである。だから非日本国籍の側が就労など何らかのビザを取れなければ一緒に日本で暮らすことはできない。
なぜこのような運用になっているのか。丸山弁護士によると、日本国籍を持つ人の場合は日本の法律上有効な婚姻でなければパートナーを配偶者と認定されないのだそう。つまり、たとえ海外で同性婚をしていたとしても、日本には同性婚がない。だから、日本人と外国で同性婚をしている外国籍のパートナーは、日本の法律上有効な配偶者には含まれえないという考えで運用されているのではないかと丸山弁護士は話していた。複雑だが、これが現状のようだ。