2018.10.03
二つの祖国をもつ親子。母と息子、それぞれにとっての「帰る場所」とは?
もし移民になったら?
想像してみてほしい。明日から海外へ移住することになったらーー。期間に定めはない。数年かもしれないし、数十年に及ぶかもしれない。拠り所のない異国での生活に慣れてきたと思えば子どもが生まれ、帰国する暇も余裕もなくなる。
子どもたちはいつの間にか移住先の言葉や文化を覚え、気づけば、最も安心できる場所や言葉が親子の間で異なっているーー。
これは世界中の移民の家族が直面してきた問題だ。移民1世の祖国に対する諦めきれない思い、移住によって失った基盤、それらを子どもたちと共有しきれないもどかしさは、言葉の壁もあってあまり表面化する機会がない。
日本で暮らす移民の一家は、二つの「祖国」について一体どのように捉えているのだろう。25歳で来日したミャンマー出身の母ケインさん、そして日本で生まれ育った2人の息子、カウン君、テッ君に今の思いを聞くことができた。
言葉のこと、仕事のこと
――日本に来ようと思ったのはなぜですか?
ミャンマーでは大学に通っていました。大学1年生のときに、いまの旦那さんと付き合って、彼が先に日本にきました。3~5年で帰ってくるという約束だったのですが、色々あって帰って来られなくて、私にも日本に来てほしいと。
私は大学を卒業したら、エンジニアの専門学校に行きたいと思っていたので、少し迷いました。でも、お父さんに相談したら「学校はダメ」「日本だったら行ってもいいよ」と言われたので、大学が終わってすぐに日本に来ました。
――お父さんはミャンマーで勉強を続けるよりも、日本に行く方がいいと?
私の家族は女の子5人で私は末っ子なんですけど、すでに2人がエンジニアになっていたから「もうエンジニアになってほしくない」と(笑)。
本当は行きたかったし、今も夢なんですけどね。
――旦那さん以外に日本に知り合いはいましたか?
親戚がいましたが、私が来て2年くらいで帰っちゃいました。旦那と私二人だけで、ミャンマー人の知り合いもいなかった。
――じゃあ、最初は寂しかったですね。
そうです、怖かったですね。自分の国じゃないし、人も全然違うので。言葉も分からなくて怖かったです。(来日前に)ミャンマーでは、家に先生を呼んで1年半くらい日本語を勉強しました。でも、大学にも行ってましたから、あまり頭に入ってこなくて(笑)。日本に来たら、全然わからない。勉強したのがどこに行っちゃったのか。しゃべるのと読むのは全然違うので。
――仕事はどうでしたか。
来たばかりのときは、家で本を読んだりテレビを見て日本語を勉強して過ごしました。6か月くらいたって話せるようになったら、はじめはお蕎麦屋さんで仕事を始めました。そのあと、銀座のお寿司屋さんでずっと働いていました。
ミャンマーでは仕事をしたことがなかったし、日本ではやると思ったことがなかった仕事についたので、結構ストレスがあって。でも頑張らないといけないと、今までやってきました。
日本に来たときは言葉もわからないから、最初は洗い場の仕事から始めて、あとはホールをしたりして。(でも)そこまでしか上がらないですね。
――キャリアアップが難しいんですね。
そう。そこまでしかできない。
もっといい仕事を頑張ろうと思っても、私ももう43歳だから、無理だなと思って。今でも何でも仕事はしますよ、子どものためなら。
――エンジニアを目指していたことを考えると、違った仕事もしてみたかった?
同級生はみんなミャンマーでいい仕事をしていますから、もったいないなぁって思いますね。
自分の会社をやっている人とか、外資系の会社で働いている人が多いです。お金持ちの人は多いね。でもそれは楽しいよ。(相手が)貧乏だと私から色々あげなきゃいけないけど、(帰省すると自分の方が)全部もらっているから(笑)。
日本に来たらパソコンを勉強して、向こうに帰ってそういう仕事をしようかなと思っていたけど、今は全く分からない。勉強ができなかったらからね。昼も夜も働いて、休みも週一日しか無いから疲れるし、時間がたって――。
カウン君はずっと言ってる。「ママ、勉強していい仕事見つけてよ」って。日本人みたいな仕事もやってほしいみたいです。それはちょっと無理だよって、説明もちゃんとしないと。
子どもたちのこと、学校のこと
――お子さんは2人とも日本生まれ、日本育ちですね。ミャンマーのご両親も近くにいない中で子育てが大変だったのではないかと思いました。ミャンマーコミュニティのお母さん同士で助け合ったりすることもあったのでしょうか?
無いです。子どもが生まれる前は、ミャンマーの踊りのグループで、お祭りがあるときに集まったりしましたけど、それ以外は無いですね。
お隣の日本人のおばあちゃん二人が、お母さんみたいな感じですごく見てくれました。色々と教えてもらって。あのときはカウン君も1歳だったから、おばあちゃんたちと出会えてよかったと思います。
ミャンマー人とはどんどん離れちゃったから。おばあちゃんの一人は引っ越して連絡が取れなくなってしまいましたが、もう一人とは今でも連絡を取り合っています。
――お子さんとの会話は日本語がほとんどですか?
ミャンマー語でも話しますけど、子どもたちの返事は日本語になっちゃう。
――外国語(=日本語:ケインさんにとっての外国語という意味)で子育てをするというのは、どうですか?
難しいです。すごく細かいことを言いたいときはミャンマー語で言いたいけど、子どもたちが分からないから、そういうときは困ります。本当は細かい内容を分かってほしいけど、結局分かりやすい日本語になっちゃう。
――ミャンマー語を教えることも?
(子どもが)一人の時は教えられたけど、二人になると忙しくて(笑)。
ミャンマーのお寺さんでお坊さんがミャンマー語を教えているところがあって、そこに行こう行こうって言ってるけど、いつの間にかこんなに大きくなっちゃって、一回も行ったことがない(笑)。
子どもたちがミャンマーに行ったとき、ミャンマー語を上手にしゃべれるようにしたいですけど、しゃべらないですね。英語でしゃべっちゃう。姉がミャンマー語で話しかけても答えられないから、英語で話すとちょっと出てくる。
私も日本語は難しいことは分からない。前はカウン君に「ママはこの言葉分からない。説明して」と言って、「ママ、この難しい言葉はこういう感じだよ」って教えてもらっていました。今は大丈夫ですけど、読むのは今もあまりできないです。
――学校のお知らせとかは大変ですね。
それが一番困っています。いっぱいあるし。先生に教えてもらっています。私からの紙が(先生に)来ないときは、先生から連絡してもらって、「お母さん、この手続きはこうです」とか教えてもらって。
――個別にサポートしてもらっているんですね。学校には他にも日本語が得意ではないお母さんを持つ生徒さんはいるんですか?
いるけど、日本人と結婚してる人が多いみたいだから、大丈夫みたい。
――他に困っていることや、助けがあったら良いことはありますか?
PTAを6年生までのうちに一度やらなきゃいけなくて、今やっています。でも私は学校に行ってもあまり話せない。だから怖いって思われてしまっているのか、なかなか打ち解けられないでいます。
「出て」って言われた日に出て、何も言わないで帰ってくる。何を話しているのかが分からない(笑)。分からないままずっと行っているみたいな。
―― お母さん同士で仲良しな人はいますか?
仲良しな人がいないですね。あまりしゃべらないから。カウン君から「PTAやったほうがいいよ、友達が出来るよ」と言われてやってみたけど、変わらないです。お店(仕事)に行くことが多くて、学校はあまり行けなくて。それもあるかもしれない。
会ったらいつも私から挨拶するようにしているけど、知らないふりをする人も多いですね。一回、二回は挨拶をして、三回目はもうしないように私もしている。さみしいね。いつも自分は気を付けています。どういう風にすれば一緒になれるかなって思っているけど、でも、うまくはできないですね。
――子どもたちにはどんな風に育ってほしいですか?
子どもが何をやりたいかを先に聞いてから、お金の問題もあるので、私と旦那さんで頑張ってそれをやってあげたいです。小さい頃はいいけど、これからは大変ですね。子どもがやりたいことは多いので、カウン君は「もっと勉強したい」って言っているし。
カウン: 早く塾に行きたいのに、(この夏に)ミャンマーに帰ったせいでできなかった。夏期講習だって行きたかったのにさー。
ケイン: いつも考えてるの、ママ。だから、もうちょっと待ってね。
――カウン君、もっと勉強したいなんて偉いね。
カウン:だってみんな「行く」って言ってるんだからさー。
――友だちもみんな同じ塾に?
カウン:みんなではないけど、2、3人いる。
――確かに塾はお金かかりますもんね。
ケイン:そうですね。だから「ちょっと待ってね」って言っているんですけど「ダメ」って言われます(笑)。
ミャンマーのこと
――ミャンマーに帰りたいなと思うことはありますか?
子どもが学校に行く前は、帰って向こうで学校に入れようかなとも思いました。でもカウン君はここで生まれて5年間ずっと住んでいて、日本とミャンマーで全然違うから、向こうに行ったら色々と難しい。
あとは向こうでも仕事がない。ずっと離れていて帰ったら、仕事も家族も難しいです。生活ももっと大変だと思います。日本の方が良かったな、と思って。子どもも生まれて、大きく育って。
――旦那さんも同じように、二人が大きくなるまでは日本にいたいと思っていますか?
旦那さんは日本が好きで、3人(旦那さんと子どもたち)は帰りたくないのは同じですね。私は帰りたいですね、いつでも(笑)。自分の国に帰りたい。向こうに帰ったら何も無くても気持ちが全然違う。自分の国だから。楽しいですね。
――どんな気持ちですか?
日本にいると、何年経っても気を付けている感じがある。ミャンマーに帰ったら、自分の国だから、気持ちのなかが何も無い、開いてる、何でも怖くない、そういう感じですね。
日本に帰ると怖い感じがある。(その怖い感じが)「何かな?」って考えても分からないですが、ただあります。
――それは来日して18年経っても。
緊張感なのか分からないけれど、そういうのがあります。ミャンマーで飛行機を降りたら「私の国だー」って。顔も違うって一緒に行った日本人から言われました。
――(子どもたちに)ミャンマーにいるときのママはやっぱり違うと感じる?
カウン:違う。ミャンマーに帰ったら喋りすぎ。
テッ:ミャンマーに友達がいてね、「ぺらぺらぺらぺら(※ミャンマー語で話すケインさんの物真似)」って。
カウン:それを毎日だよ!ずっと待たされるの。
ケイン:ここではしゃべれる人がいないので。ミャンマーで同級生たちに会えるとすっごく楽しくて、たくさん話すので子どもたちが焼きもちをやいてしまいます(笑)。
カウン:ママは楽しいかもしれないけど、僕たちは退屈なんだよ。
――帰国するときはどれくらい滞在するんですか?
この夏休みは3週間帰りました。でも、子どもたちは今は日本の方が楽しそう。ミャンマーにいるとぐずぐず言って(笑)。「ママなんでここにいるの、意味ないでしょ」とか。だから、自分も楽しくなくなっちゃいますね。
家族に会うためにミャンマーに行くけど、そういう風に子どもがぐずぐず言うと、「そうね、意味ないね」って思って。「日本に帰った方がいいな」って。「なんで3週間も取ったの」って思っちゃう。
――さみしくないですか。
子どもがぐずぐず言うと「かわいそう」って思って。私も向こうで何かあるわけではなく、遊びだけですから。遊びはちょっとでいいんじゃないのとか自分でも思います。
子どもが一番になるよね、そういうときは。今度行くときは、1週間とか2週間とか、子どもに確認してからチケットを取るようにします(笑)。
『僕の帰る場所』
ここで一つ種明かしをしたい。実は、ケインさん、カウンくん、テッくんが主演の映画がもうすぐ公開される。ドキュメンタリーではない。フィクション映画だ。
3人ともに演技の経験はない。現実の家族であるそんな3人が、日本とミャンマーの間で揺れ動くまた別のリアルな家族のストーリーを演じた映画『僕の帰る場所』――実は昨年の東京国際映画祭でも受賞を果たしたすごい映画なのだ。脚本の9割は別の家族の実話がもとになっているという。
日本で難民申請の結果を待ちながら生活する4人家族。カウン君が演じるのは、物心ついた頃から日本で育ち、自らを「日本人」だと思っている6歳の少年。テッ君も3歳の弟役を演じている。そして、日本に馴染めず、先を見通せないストレスのなかで病んでいく母役を演じるのがケインさんだ。
日本での生活に耐えかねた母は、子どもたちだけを連れてミャンマーへと帰国し、日本に残って働く父アイセとは遠く離れて暮らし始める――。
祖国の風を感じて回復していく母。それとは対照的に、初めてのミャンマーに動揺し、日本への「帰国」を渇望する息子。3人が現実の家族であるからこその演技を超えた演技を通じて、移民1世、2世それぞれの日常と葛藤を限りなくリアルに感じられる作品となっている。
藤元明緒監督に制作の背景やテーマについて聞いた。
――この映画のテーマは何でしょうか?
大きく二つあります。まず、「帰還移民」の物語に注目したいというのが一つです。日本に来る外国籍の方の問題というのは、ビザだったり、入管の問題だったりと、たくさん語られていますが、帰っていく人の物語まで追ったものはすごく少ないと感じていました。帰った後にどんな暮らしがあって、どんな表情をしているのか。
もう一つは「子ども」です。難民であっても、難民でなくても、たくさんの(海外にルーツをもつ)子どもたちが日本にいると思います。その子どもたちが日本で育っていって、二つの祖国があるなかで、どうアイデンティティを獲得していくのか。外国籍だけど日本にいて、自分が日本人だと思っていて、その曖昧さをどう感じ取っていくのか。
その二つが大きく意識していたところです。
――映画を観て、ドキュメンタリーよりもリアルだと思いました。キャスティングによる効果でしょうか。
キャスティングでは“心情を知っているかどうか”を重視しました。実際の状況は違っていても、周りに同じような境遇の人がいて、心情を分かった上で出てくれるかという意味です。オーディションをしたわけではなくて、偶然の出会いでしたが、そこをちゃんと分かっている人でやりたいという思いはありました。
「本番」や「スタート」もあまり言わず、いつ始まって終わったのかも分からないように現実世界の地続きで撮影していました。演技をしているということではなくて、その場を生きているという感じですね。自分で脚本を書いて監督もしているのに、撮影しながら「そんな表情をするんだ」と僕も教えられることが多くて、すごく楽しかったです。
――ミャンマーに出会ってこの映画を撮るまでの経緯を教えてください。
ミャンマーと出会ったきっかけは5年ほど前に「ミャンマーで撮れる映画監督募集」というネット広告を見て応募したことでした(※この企画自体はのちに流れており、『僕の帰る場所』はその後に企画)。
それまではミャンマーに全く縁がなくて「ミャンマーってどこ?」というところからスタートしました。高田馬場のミャンマー料理店でミャンマーの人たちと飲むようになって、物語のモデルになったお父さんと出会いました。彼の子どもが「ミャンマーに帰ったんだよ」って話を聞いたときに、初めて「人」レベルの話で共感できたんです。
そのときが初めて「ミャンマーじゃなくてもいいや」と思った瞬間で、お父さんや子どものことにすごく興味を持ちました。それが映画の描き方にも反映していると思います。
映画を観ている人の距離感も同じにしたかった。人間扱いしたかったんですよね。「なにかのカテゴリーの人」という扱いをされることが多い中で、映画は人を人として見せられるチャンスだと思うので。
どんなビザを持っているかとか、どんな理由で日本に来たのかとか、実際に人付き合いしていても、その人のバックボーンまでは見えないじゃないですか。こちらが聞かない限り話さないですよね。だから映画でも説明はしていません。
――『僕の帰る場所』というタイトルに込めたものを教えてください。
「帰る場所」っていうのは普遍的じゃないですか。最終的にカウン君はどこに帰っていくのか。「帰る場所」について考えていくというのは、自分のアイデンティティを考えていくことにつながっていると思います。それは家族の単位で考えることでもあったり、視点によっても違うと思います。それぞれにとっての「帰る場所」というのは混在しているというか、たくさんある。それが今、起きているのかなと。
家族というのは、あくまで個人の集まりなのに、離れることができないですよね。友だちであれば離れて終わりですけど、家族の場合そうならない。ダメなところもいいところも、帰国についても、それぞれの思いはバラバラなんだけれど、それでも一緒にいないといけない。弱いところときれいなところが混在している。「家族って面倒くさいけどいいな」と、この映画を撮った後に自分で観返して思いました。
――監督自身も映画をきっかけにミャンマーの女性と結婚されて、拠点をミャンマーに移されたんですよね。
そうなんですよね。子どもができたら、完全に同じことが自分に返ってくるなと(笑)。どっちの言語で育てようかとか奥さんともよく話しますが、正解は分からないですね。まさか自分がミャンマーに住むことになるとは、映画を撮り始めた5年前には考えてもみなかったですね。5年後どこにいるかも分からないですし、人生って怖いですね(笑)。
それぞれの「帰る場所」
――映画のタイトルが「僕の帰る場所」だけど、二人にとっての「帰る場所」はどこ?
テッ:公園!
カウン:帰る場所は、家だけど。家族がたくさんいるから。帰る場所は、いいところ。
――家族がいるところ?
カウン:そうそう、そんな感じ。大人になったら家族っていないかもしれないけど、その思い出は家にあるから。家ってさ、自分の家を、カウン家を象徴するってそんな感じ。自分の象徴みたいな。
テッ:僕たちはミャンマーにいたからね、僕たちがミャンマーに帰ればいい話だよ。
カウン:だからね、ミャンマー。ミャンマーだよ、帰る場所は。
テッ:ほんとに帰る場所はミャンマー?
カウン:そうだね。
テッ:僕たちは日本に生まれたんだから日本に帰るべきだよ。
カウン:でもミャンマー人だからミャンマーに帰るべきだよ。
テッ:汚いからやだ!ゴキブリ!
カウン:デリケートだね(笑)。
テッ:デリケートじゃねーよ。
カウン:じゃあ帰れるじゃん(笑)。
テッ:じゃあ帰りまーす!
――もしお母さんとお父さんがミャンマーに帰るって言ったら、ついていく?
カウン:うん、今よりも状況がいいと思うから、良くなったら良くなったで帰るけど、でも、ミャンマーがどうなるか。
テッ:ママたちが「ミャンマー行く」って言っても信じないからね。
カウン:ママたちは行くつもりある?ミャンマーに。
ケイン:うん。
カウン:えーーー。
テッ:行かないで!
取材後記
移民は難民と違って「自由意思」で移住を選び取ったものと捉えられがちだ。しかし、現実はそうはっきりと白黒をつけられるものでもない。
ケインさんは自ら日本行きを選んだとも言えるし、同時に夫や家族の意向に沿って何となく日本に行くことになったという側面もあるのかもしれない。祖国への思いの強さは人それぞれだ。
ミャンマーの政情が不安定だったことや、子どもが小さかったことから、ケインさんが初めて帰国できたのは2014年。25歳で来日してから14年も帰れていない。
その間ケインさんは最愛の父の死に目に立ち会えない経験もしている。彼女にとっての「帰る場所」は、“帰れない”という経験を通じてより一層強調されてきたようにも思えた。
その一方で、ケインさんは、日本への移住によって家族との平穏な生活が成り立っていること、そして日本でしか今の家族の形はあり得なかったことも受け入れていた。自己犠牲だけでは説明しきれない彼女の複雑な心境が印象的だった。
家族にとっての「帰る場所」と、自分にとっての「帰る場所」がばらばらなとき、家族がそれでも一緒にいるためにそれぞれがどう折り合いをつけていくのか。移民に限らず、どんな家族にも大なり小なり類似する葛藤があるように思う。
映画を観ながら、ケインさん一家が演じる「移民の家族」の心境にかつてないほど感情移入できたのは、そんな普遍的な側面が描かれていたからかもしれない。
これからの時代、日本にはより多くの移民とその子どもたちが暮らし、同時に日本から世界各地へと移住する人もますます増えていくだろう。少し先の未来を経験するような気持ちで、『僕の帰る場所』を観てほしいと思う。
CREDIT
野津美由紀|取材・執筆
望月優大|取材・編集
田川基成|取材・写真
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