2017.12.06
駅に来たら、母語が聞こえる。前代未聞の24ヶ国語アナウンスを始めた駅長が実現したかったこと
新大久保は「韓流だけじゃない」
韓流の街というイメージが強い新大久保。しかし、駅から一歩出ればもっと「複雑」であることに気づく。行き交う人たちの出身国は2〜3ヶ国では済まなさそうだ。
街頭の看板も日本語、韓国語、英語に加えて、ネパール語やベンガル語らしきものが並んでいる。色やデザインも独特だ。
驚いたのは、駅構内の多言語アナウンス。なんと24ヶ国語で、「事故防止のために、階段や通路は右側を歩いてください。階段は止まらずに進んでください」と流れている。駅構内の様子を実際に音声付きの動画で撮影してきたので一度聞いてみてほしい。
この多言語アナウンスは2015年に始まったという。前代未聞の24ヶ国語アナウンスを導入した当時の駅長、阿部久志さんに、取り組みのきっかけや狙いについて話を聞いてみた。
キセルをする留学生たちを通じて見えてきたこと
――今日はよろしくお願いします。本題に入る前に質問なんですが、新大久保に家を建てたということは、この街に魅力を感じていたんですか?
いや、魅力とかそういうのはないです(笑)。
田舎にも帰らないだろうし、家でも建てようかと話して決めました。郊外にすると通勤が大変だからここにしただけで、逆に怖かったです。
今は韓流の街って言われているけども、前は色んな「立ちんぼ」がいたり、暗くて怖い街。良いイメージはなかったです。
――この20年で街の変化を感じますか?
住んではいたけれども、通過点でしかなかったので。駅長になって初めて、四六時中改札を見て、人の移り変わりを感じるようになったね。
2014年ごろからはベトナムの若い留学生が目を見張る勢いで増えてきて。何を目的に日本語学びに来ているんだろうなあなんて考えながら見ていました。駅って24時間の人の流れを見られるわけじゃないですか。
朝の初電くらいで外国人の方が降りてきます。アルバイトをしてるんですよ。どこかで休んで学校へ行くんだと思うけど、それで本当に日本語覚えられるのって。
ーー深夜に働いたあとに始発で新大久保まで来るんですね。そのあと日本語学校に行くと。
悪い輩もいっぱいいて、キセル乗車もたくさん捕まえました(笑)。駅員が捕まえても言葉が通じないし、どうにか逃げようとするので、うやむやに逃げられることも結構ありました。
悪いものは悪い。私が自ら改札に立ちました。特に朝帰りする人たちに多かったね。夜中に工場のバイトして、電車賃払いたくないわけですよ。で、突破していく。
捕まえると3倍もらわないといけないからね。元々持っている定期が終わったところからの3倍だから、なかには50万円近くになる人もいました。毎月1万円ずつ返しにくる人もいますよ。
でも、罰金が目的ではなくて。彼らが留学できているのは分かっているので、学生証見せてもらって、私は学校の校長に連絡します。
「生徒さんがこんな生活を送っているの分かってる?日本にいれば、校長先生は親代わりなんだから」
私からはそんなような話をして、それがきっかけで何校かの日本語学校と交流するようになりました。
――学校側はどんな反応でしたか?
驚いていたけど、どこの校長さんも親代わりをしないといけないという意識はありましたよ。いま学生さんたちがどんな境遇に置かれて、どういう思いで日本にきているのか。
要するに自分の母国では稼げない。日本には、少し言葉を覚えれば働ける場所がいっぱいある。多分そういう目的で、なけなしのお金で日本に来ている人たちがたくさんいますから。
「そこまでトータルで考えたうえで、日本語を教えているのか?」と。差し出がましいけれど、24時間改札を見ていて感じたことを話しました。
そこで学校の悩みと私たち駅側の悩み、この2つを合わせて、色々考えて、自分が駅長としてできることとして思いついたのが、駅構内のアナウンスだったんです。
本当は50ヶ国語以上にまで増やしたかった
ーーそういう経緯があったんですね。
改札入って、左右の階段に分かれるでしょ。そこが狭くて人が交差してしまってうまく流れない。だから「右側を歩いて」とアナウンスをする必要がある。最初は日本語のアナウンスだけだったんだけど、こんなに日本人が少ないのにそれはおかしいよね(笑)。
日本語学校は午前と午後の授業があって、お昼過ぎに入れ替わるので、13時前の時間帯の改札は本当に日本人がいなくなるんです。大きいターミナル駅では、英語や中国語、韓国語も流したりはしているけれど、それでは面白くない。
よりたくさんの言語でアナウンスをと考えて、2つの日本語学校にお願いすることにしました。在学している生徒さんが50数ヶ国から来ているというので、その全ての言葉でアナウンスを流したかった。
ーー多言語のアナウンスはどんな想いを込めていたんですか?
駅ってやっぱりみんなの心の拠り所だからね。どこへ行くにも出発点だし、帰ってくる終着点でもある。自分は田舎出身だからかもしれないけどそう思っていて。駅で母語を聞けたら、みんな喜ぶだろうなって。
だからあえてアナウンサーではなくて日本語学校で学んでいる人たちに言ってもらうことにしました。日本語学校とは関係があったので、お金は無いけど協力してくれないかと思いを伝えた。みんな快く協力してくれました。友達がまた友達を呼んで広まったんですね。
自分があと1年間駅長ができていればという思いはあります。24ヶ国語までしかできなかった。限りなく50ヶ国語まで近づけたかったですね。取り組みに関する情報ももっと発信して、全国に展開していきたいという夢もあったんだけれども。
――外国の方が増えていくことに対して嫌だなと思ったり、コミュニケーションをシャットダウンしてしまう人も多いと思います。
そうだね。シャットダウンする方が簡単だからね。
かっこよく言えば、うまくやっていきたい。私も大久保に住んでいるので、生活ルールが分からない人がいるということも知っている。でも、色んな国の人がいてもちゃんとやれるような街になれればいいなという思いがあります。
話の入りはそういう美談なんだけれども。ただ、「こんな小さい駅でも色んなことができるんだよ」と駅長としての私の腕を見せたかったというのもある(笑)。
そういう気持ちってあるじゃない。色んなところで苦労してきて、せっかく駅長になれた。駅長は地元の顔だし、これだけ外国人が増えた駅なんだから「やれることはやるぞ」、「駅を使ってくれる人がみんな笑顔になってくれれば」という思いですよ。
母語が聞こえてくる
――阿部さんは留学生の境遇を想像して寄り添っている印象を受けました。
東北の人がよく、「上野に行く」っていうでしょ。あれと一緒ですよ。上野に行けば、降りてくる人から東北訛りが聞こえるんですよ。ホームシックにかかったときは、昔はみんな上野に行っていたんですよ。いまは新幹線が東京駅までだから違うけどね。
――阿部さんもそのために上野に行ったことがあるんですか?
ありますよ(笑)。だいぶ前の話だけどね。それと被るようなところかな、母語が聞こえてくるというのは。
この取り組みに誰かが興味を持ってくれて、少しずつでも全国に広がっていったらなと。 そう思っています。
取材をふり返って
利便性からたまたま新大久保に住まいを構え、さらに駅長として四六時中改札を見てきた阿部さんならではの話を聞くことができた。多言語・多文化の人たちが利用する駅、暮らす街には、当然きれいごとだけではなく摩擦やトラブルもある。そういった側面も普通の人より多く見てきたであろう阿部さんが、外から来た人たちを排斥するのではなく、むしろ彼らの視点に立って「彼らがどんな駅なら安心できるか」を考えたという温かさがとても印象的だった。
その温かさ、原点にはご自身の地方から東京への移住経験がある。当時は今のように交通機関も発達していなかっただろうし、そう簡単には帰省もできない。今の海外移住と同じくらいの寂しさや苦労があったのかもしれない。私自身、高校生でアメリカ中西部のミズーリ州に留学したとき、強烈な孤独感を味わい、特に好きでもなかった日本語の曲をひたすら聞いて安心したことを思い出す。
国内でも海外でも、自分の慣れ親しんだコミュニティから離れて新しい土地でゼロから始めた経験は、外から来た他者への想像力につながるのだと改めて感じた。
【コラム】新大久保・多国籍化の歴史
新大久保駅周辺を含む新宿区の統計(2017年11月1日現在)によれば、新宿区の在住外国人は43,066人(全体の12%)。中国・韓国・ネパール・ベトナム・ミャンマーの上位5ヶ国で、その8割近くをなすが、国籍のバリエーションはなんと133ヶ国にのぼる。そもそも、多国籍な街はどのように出来上がったのか、簡単に歴史を振り返ってみたい。
新大久保駅がある大久保・百人町(ひゃくにんちょう)の発展は、隣町の歌舞伎町の歴史抜きには語れない。1945年の空襲で、新宿から大久保にかけての市街地の9割が焼失。戦後すぐに民間主導による戦災復興事業のまちづくりが始まり、歌舞伎を公演する菊座や映画館、ダンスホールがある「歌舞伎町」の建設計画が始まったという。
歌舞伎町の建設にあたっては、資金力のあった華僑や在日コリアンが、焼け野原だった歌舞伎町の土地を購入した。1956年にミラノ座、東京スケートリンク、新宿コマ劇場などが相次いで開業し、歌舞伎町が完成。歩いて通える距離の大久保には、ホステスやボーイとして働くために地方から上京した人の住まいとして、木造アパートが次々と建設され、歌舞伎町のベットタウンとなった。
また、在日コリアンのバラック群も大久保駅から新宿駅にかけてあり、在日コリアン一世の重光武雄氏が創業した株式会社ロッテの新宿チューインガム工場が、百人町2丁目にできると、雇用を期待した在日コリアンがさらに集まるようになったという。
90年代になって、留学生や就学生として来日した人たち(いわゆる「ニューカマー」たち)がスモールビジネスを起こし始める。百人町に初めてできたエスニック料理店は、91年開業の日本初のミャンマー料理レストラン「ヤッタナー」だった(2006年まで営業)。その後、台湾人による店、東南アジアの食材店など徐々に増えていったという。
90年代中頃になると、「コリアンタウン」として名高い職安通りに、韓国系店舗が顕在化していった。韓流ドラマ「冬のソナタ」が2003年に日本で放送されて以来、日本人客が爆発的に増加。続いて、東方神起、KARA、少女時代などK-POPにも人気が集まり、客層が広がっていった。
「イスラム横丁」と呼ばれる界隈も、実は90年代からムスリム系のミャンマー人がハラール食材店を経営しており、種はあった。2005年にインド系ムスリムがハラール食材店を始めたことで、本格的にムスリムが集う場所になっていったようだ。「GREEN NASCO」の4階にはモスクもあるため、買い物もお祈りも両方できる場所となっている。<参考>
- 稲葉佳子『オオクボ 都市の力 多文化空間のダイナミズム』学芸出版社、2008年
- 筑紫祐二「新大久保にある「イスラム横丁」にいってみた」東洋経済オンライン、2015年5月15日
- 歌舞伎町ポータルサイト
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