2024.01.17

彼はその夏に「密航」したのか。埋もれた小説が伝える手がかり、残された日記が示したヒント。#密航のち洗濯

2024.01.17
望月優大

ある人物が80年近くも前に「密航」していたとして、その事実をどうやったら知り得るだろうか。そのことを家族に語っていたら。あるいは、どこかに書き残していたら。

けれど、それが「密航」と名指される移動であるがゆえに、その経験は語りづらく、書きづらいものとなる。だからこそ、少ない例外を除いて、広くは語られず、書かれてもこなかった。

誰もが参照できる資料はと言えば、例えば1946年に日本の警察が2万人弱の「密入国者」を検挙した、そんな公的な記録。そこに「個」の姿はない。万の単位の「群」がいるばかりで。

写真:田川基成(以下同)

日本語で書かれ、1960年から61年にかけて発表された小説「密航者の群」を通読したことがある人は、これまで一体何人いるのだろう。三桁はいるだろうか。それとも二桁にとどまるだろうか。

私自身は、無名の作家・尹紫遠(ユン ジャウォン、1911〜64年)によるこの忘れ去られた作品を、つい一年ほど前に読んだ。そして、いつの間にか彼の人生を追いかけることに没頭し、いつの間にか一冊の本までつくってしまった。

それが、ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』から初の書籍化となる『密航のち洗濯——ときどき作家』(柏書房、2024年)。一緒に書いたのが、彼の存在を忘れていなかった数少ない研究者、というより人間である宋恵媛(ソン へウォン)さんだ。

尹紫遠の長男である泰玄さん(テヒョン、1949年〜)と出会った彼女は、尹紫遠が残した日記と作品群とを琥珀書房からおととし公刊した。これらの仕事が、私が尹紫遠やその文章を知り得たことの前提、そして今回新しい本をつくれたことの土台となっている。

琥珀書房から2022年末に出版された尹紫遠の関連書籍。「密航者の群」は右の『未刊行作品選集』に収録。大部の『全集(電子版)』も合わせて刊行された

尹紫遠は、1946年夏の「密航」を書いた。ものすごく詳細に、その内実を描いた。

小さな船に乗った30人あまりの人々は、1946年の6月下旬、南朝鮮(まだ「韓国」ではない)の蔚山(ウルサン)から深夜に出発した。朝鮮と日本の間の海を三日三晩漂流し、山口県の「K村」で捕らえられた。そして、下関や仙崎での収容ののち、主人公は再び海へと逃れた。

彼が「小説」という形を選んで描いた物語は、果たして彼自身の「密航」でもあったのだろうか。この問いをめぐって、私たちの間では一定の答えが出ている。そこに至るまでにはどんな種類の資料が必要で、その稀少な資料とはいつ、どのようにして出会うことができたのか。

尹紫遠の「密航」について、宋恵媛さんと改めて話をした。

『密航のち洗濯——ときどき作家』
(装画:木内達朗/装丁:小川恵子)

(*)本記事では「密航」という言葉を以下の意味合いで使用する。『密航のち洗濯』冒頭の凡例に記したものだ。「密航」について語るのに必要な準備として。
「密航」という用語について(「密航者」や「密航船」などについても同様)。本書では正規の渡航手続きを経ずにある領域から別の領域に移動する行為を指す。国家間に限らず、植民地と「内地」の間や、被占領地域の間など、領域間の移動が公権力や軍により規制された状況を広く含む。戦争、迫害、貧困、家族分離などその背景は様々だが、正規のルートが断たれているか、厳しく規制されている場合に、生き延びるための手段として非正規の移動を選ぶ人々もいる。戦後の日本は、植民地化により日本国籍とされていた朝鮮人など、旧植民地ルーツの人々をも外国人登録の対象とし、「密航者」の取締りを進めた。だが、渡航先の国籍の有無に着目し、外国人のみに「密航」を重ね合わせる見方を本書はとらない。日本人による日本への「密航」も定義上起こり得るし、歴史上も実際にあった(敗戦後の公式船以外での「引揚げ」など)。《『密航のち洗濯』p18より引用》

埋もれた「小説」を掘り起こす

――そもそも宋さんが尹紫遠の存在を知ったのはいつごろでしたか? 彼自身が「密航」を経験したのかもしれないと考え始めた経緯も含めて改めて聞かせてください。

「密航」の出発地、蔚山の日山津(イルサンジン、現・日山洞)にて。宋恵媛(ソン へウォン)さん。著書に『「在日朝鮮人文学史」のために──声なき声のポリフォニー』(2014年/2019年[韓国])、編著に『越境の在日朝鮮人作家 尹紫遠の日記が伝えること』(2022年)、『在日朝鮮女性作品集』(2014年)、『在日朝鮮人文学資料集』(2016年)等

まず、1945年の朝鮮解放以後の「在日朝鮮人の文学史」を書きたいというのが、私の研究の始まりだったんです。

けれども、私が扱っている1970年代以前というのは、文学作品にしても金達寿(キム タルス)とか許南麒(ホ ナムギ)とか、何人かの例外を除いてほとんど単行本として出たものが無いような時代で。国会図書館で探して見つかりましたとか、そういうことでは全くないんですね。

だから、まだ生きていらっしゃった一世の元作家の方を訪ねたり、亡くなってしまった方のおうちに行って蔵書を見せてもらったり、どこかに遺贈されたものを見に行ったり、そういうことをして、色々な新聞や雑誌とかからまず作品を集めるという作業をしていて。

例えば、尹紫遠が故郷・蔚山の江陽里を描いた随筆(雑誌『鶏林』1959年1月)

――ものすごく地道な作業ですよね。すごすぎる。2000年代とかにやっていたんですか。

そうですね。アメリカのメリーランド大学まで行って、現地のプランゲ文庫(*GHQの民間検閲支隊が集めた膨大な出版物を所蔵する)で在日朝鮮人関連の新聞や雑誌を一通り見たりもしました。

そうやってかなり色々なものを読んでいくうちに、有名な詩人の金時鐘(キム シジョン)さんもそうですが、在日朝鮮人文学における「密航者」たちの存在の大きさがすごく身に染みたんですよね。その中で、尹紫遠の「密航者の群」のことも知って。

ただ、「密航者の群」は散逸状態というか、最初に『コリア評論』という雑誌に少し連載していたら、その雑誌が休刊してしまって、今度は別の『統一朝鮮新聞』に連載されたという形だったので、全部を見つけるまでに時間がかかりました。新聞とかは本当に一枚一枚目を通さないとわからないので。

――バラバラだったんですね。

そうそう。で、全部がつながって読んだときに、こんなにリアルに「密航」を書いた人って、おそらく本人も「密航者」なんじゃないかなと思ったんです。

尹紫遠。戦後、「作家」だけでは生計が立たず、東京都目黒区で「洗濯屋」として生きた

でも、当時は尹紫遠についての情報がほとんどなくて、彼がほかに書いたものも断片的にしか探せない。彼が自分のことを書いたのか、あるいは自分の知り合いとか近い人が経験したことを書いたのか、その判別がずっとつかないというような状態でした。

――描写がすごくリアルだから本人の経験のようだけど、確実にそうだと言える理由まではなかった。

うん。それと、解放直後の時期の「密航」を描いた作品って見たことがなくて、そういう意味でも「密航者の群」は貴重だった。この時期、「知識人」はごくごく少なかったと思うんですね。

そこからもう何年かあと、つまり1950年に始まる朝鮮戦争前後の時期の「密航」だと、解放後の朝鮮で学生をしていたり、知識人だった人も多く混じっていて。同じ「密航」でも時期によって階層差がかなり大きい。

長崎県大村市にある現・大村入国管理センター。1950年、朝鮮戦争の勃発直後に大村収容所ができた。数多くの朝鮮人を収容し、送還してきた

――前者の時期の「密航」というのは、1945年の解放前後に日本から朝鮮に戻り、その後1946年頃に再び日本に戻ってきたような人たちが多かった頃ですよね。「密航者の群」はまさにこの時期を描いている。

はい。元々日本に生活基盤があったような人が、一回朝鮮に帰って。でも、インフレとか、政情不安とか、ここではもう暮らせない、そもそも土地も家もないということで、日本に逆戻りするパターンが多かった。

そういう人たちが、そのあとに何かを書いた例って私はほぼ知らなくて。「密航」について当事者が書くというのは元々少ないんですけど、その中でも「密航者の群」は時期的に見て特異な、とても稀なものだということで興味を持っていました。

――少し前まで生活していた日本、あるいはまだ親族が残っているところに戻ってなんとか生き延びようとしたけれど、日本も朝鮮も占領下にあって、渡航許可を得るのがほぼ不可能だった。そんな人たち。

うん。生活者という感じですよね。

焼け野原となった東京に立つ尹紫遠(一番右)。1952年のサンフランシスコ平和条約発効に伴い日本国籍を喪失させられるまで、朝鮮人は日本国籍を持っていた

――1960年から61年にかけて「密航者の群」が連載されていた当時の雑誌や新聞もマイナーなものだったんですか。

そうですね。『統一朝鮮新聞』は韓国から「密航」というか亡命してきたような知識人たちが作った新聞で、当初は南でも北でもなくというような志向だったんだけど、その状態では長くは続かなかった。

――宋さんが尹紫遠のことを最初に知ってからは随分時間が経っているんですね。

存在は知っていた。だから、2014年に岩波書店から出した本(宋恵媛『「在日朝鮮人文学史」のために』)ではかろうじて書けた、という感じで。ただ、もっと調べたいと思っても、そのときは何も手段がなかった。

残された「日記」と遭遇する

――その段階を超えて、尹紫遠本人が「密航」したとわかってきたのはいつ頃ですか。

2019年に東京の韓国YMCAで開かれたシンポジウムで話をしました。それが終わったあとに、ある方が「自分は尹紫遠の息子と友達なんだけど」と声をかけてくれて。

私はずっと尹紫遠という人のことがどこかで気になっていたので、じゃあすぐに会いに行きたいという話になり、その方に案内していただいて長男の泰玄(テヒョン)さんのうちに行った。

すると、色んなものが机の上に置かれていて、何かノートの山みたいなものもあった。それが日記だったんです。

尹紫遠が1964年に亡くなって以降、家族の手でずっと残されていた

――尹紫遠の日記ですね。ついに。

それで、すぐさまノートを開いてみたら、金達寿や金素雲(キム ソウン)の名前とかが手書きで書いてある。まず、在日朝鮮人一世の人が手書きでたくさん文字を書いているというもの自体が、とても珍しかった。

今まで見てきたような資料というのは、短いけど活字になっているものとか、ガリ版だったりとか、新聞や雑誌に掲載されたりしたものとかが中心で、本当に私的に何かを書いたものを目にするということがほとんどなかった。だから、まずそこですごく目を惹かれた。

――なんだこれは、と。

そうなんです。肉筆で書いてあるというのがとにかくものすごく新鮮で。本当に接する機会がないものだったので。これは非常に貴重なものだということがすぐにわかりました。

宋恵媛さん、尹紫遠の長男・泰玄さん。二人の出会いが転換点となった

――その日に日記を借りて帰ったんですか?

リュックに詰めて持って帰りました。9冊です。ほかにも写真とかも。すごい重かった。荷物を持って帰る道中で、「これは絶対出版せねば」と一人で決意しました。それで、次の日には全部スキャンして。

――そして?

そして?

――今、「密航」の話をしてます。

あ、そっか。忘れてた笑。

――大丈夫です笑。日記との出会いがそれくらい衝撃的な出来事だった。絶対出版するぞと。2019年、当時の気持ちが伝わってきます。その日記が、尹紫遠自身が「密航」を経験したかどうかにも関係してくる。

そうですね。手書きで、旧字とかもあって読みにくかったんですけど、とにかく全部読んで。そしたら「密航」っていう文字は一つも見つからなかったんです。

ただ、直接的に書いたところは無いんですけれど、1946年9月の一番最初の頃の日記に「君はその後一体どうしてゐるのだ」とか、「未だ舟の中に苦労してゐるのだろうか」とか、そんな記述があって。

1946年9月23日の日記。「未だ舟の中に…」

それで、彼が当時、生きているか死んでいるかもわからない人と別れたままになっている状態だったんだということがわかった。この「舟」はもしかしたら… とも思って。

――尹紫遠がのちに「密航者の群」で描くことになる「舟」なのではないかと。

そうですね。あとは、「兼二浦(キョミポ)」という見慣れない地名が出てきました。一度目は戦後すぐに自分が書き始めた小説のタイトルの中で、もう一度は兼二浦という場所で自分の子どもが生まれたけど死んでしまった、というような記述があって。

調べてみたら、この兼二浦というのは、植民地期の朝鮮北部に実在した地名だとわかりました。それで、尹紫遠自身が朝鮮解放の時点で日本にいなかった可能性があるとわかり、そこから再び日本に来たということだから、その移動がほぼ必然的に「密航」であったということもわかった。

――日記の中の細かい記述がヒントになって、尹紫遠自身が「密航」を経験していたことが見えてきた。敗戦/解放の割と直前までは日本にいたわけですもんね。彼が東京で歌集の『月陰山(タルムサン)』を出したのがいつでしたっけ。

1942年ですね。

――そうでした。その尹紫遠の子どもが朝鮮北部の兼二浦で生まれてすぐに亡くなっている。兼二浦という地名は解放直後に朝鮮の北から南へと向かう一行を描いた小説『38度線』(1950年)に出てきますね。まさに38度線越えの出発地として描かれている。

尹紫遠が生前唯一書籍の形で刊行できた小説『38度線』(早川書房、1950年)。同年に彼の故郷で戦争が始まったことで、日本でも朝鮮への注目が高まっていた

そうですね。そして、『38度線』となる前の元のタイトルが「終戦当時の兼二浦」だったということが日記からわかりました。

――兼二浦という一つの地名が、小説の物語と日記の現実とを結びつけた。

まず小説があって、日記があって、もう一回小説を見直して。さらに泰玄さんが送ってくださった色んな公的文書だとか、証明書みたいなものも合わさって。それでようやく全体像が浮かび上がり始めたという感じでした。

そんなときに望月さんが… という。そこからまた進んだからね。

「密航」の土地を歩く

――そのあたりで知り合うわけですね。

琥珀書房から2022年の末に『日記』と『作品選集』を出して、集められた作品なりは全て電子版の『全集』に入れて出して、それで私の中では一応「終わった」んですよね。

「やっと終わったな」と思ったら、終わるや否や望月さんから連絡をいただいた。

山口県仙崎の「海外引揚げ上陸跡地」

2022年末の時点では、「密航」した人の日記なんだということまでは言えていた。けれど、その「密航」の具体的な姿というものはまだ描けていなくて。やり残していたというか。だから、特に山口県の青海島とか、行ってみたかったんですよね。その場所に。

――「密航者の群」に出てくる具体的な土地に自分の足で行ってみたかった。青海島、仙崎、K村、下関。韓国の蔚山にも。

そう。望月さんと田川さんと一緒に行けたっていうのが、すごい良かったんです。色々な話をしながらめぐれたことがすごい大きくって。

――最初にお会いしたときに、「蔚山のクジラ博物館が〜」とか色々言ってましたよね。

確かにクジラにこだわってましたよね、私。それで、望月さんが「こっちにもある」とか言って、蔚山だけじゃなくて青海島にもクジラの博物館があることを見つけてくれて。

――そうでした。それで、両方行きましたね。クジラたちが日本と朝鮮のあいだの海をぐるぐると回っていることがわかった。捕鯨の歴史も。

蔚山・長生浦(チャンセンポ)のクジラ博物館

山口県青海島のくじら資料館

最初に喫茶店で話していて、正直「おっ」と思ったのが、私がパソコンに入れてる「密航者の群」を一緒に見たじゃないですか、それで私が「このK村ってどこだろう?」みたいなことを言ったら、望月さんがすぐに調べ始めて「これ絶対ここですよ」って言ったときに、「お、いけるな」と笑。

――笑。確かに最初は「K村」がどこかわかってなかったですもんね。

いくつか候補はあったんだけど。

――あのあたり「K」の地名が多いから。まあ、こいつに色々探させようと。

違う違う笑。でも今思えば私が一人で青海島とか「K村」に行ったとしても、方向音痴だし、全然何もわからなかったと思う。

――自分の尹紫遠への関心としては、最初に琥珀書房の山本捷馬(やまもと しょうま)さんから連絡をいただいて、在日一世の日記というとても貴重で珍しいものが出ますと、そうなんですかと。そこがスタートだったんですね。だから、自分の中ではあくまで日記のほうが主役で、「密航者の群」とかの小説のほうは宋さんと日記について話せるようになるために読む、勉強しなければならないものという感じだったんです、はじめの頃は。

そうだったんですね。

釜山の草梁(チョリャン)も「密航者の群」で描かれた土地の一つ

――だから、尹紫遠が「日記」を書いた人物として稀有な存在だということはわかっていたんだけど、「密航」を描いた人物としても稀有だということについてはそこまで意識ができていなかった。頭の整理がついていなかったというか。それで、実際に宋さんに会って、青海島に行ってみようとかいう話になってくると、むしろ日記よりも「密航者の群」のほうがテクストとしては重要になってくるじゃないですか。

確かに。うんうん。

――それで「密航者の群」にたくさん線を引きながら熟読していくと、この人は「密航」のディテールを書いた人なんだ… という感じで、自分の中の尹紫遠像がシフトするというか、横にズレるような、そちらの稀有さも日記と同じくらい重要なんだということがわかってきて。宋さんのほうでは当然わかっていることなんだけど、自分としては発見というかそんな感じでした。

あそこまで熟読したのは史上二人目かもしれない…。

――「密航者の群」ってすごいですよね。特に、やっぱり具体的な地名とかを書いてくれているので。

私たちにとってのガイドブック的な感じになりましたよね。

「密航者の群」の記述を元に、かれらが逃れ着いた海岸の場所を探し歩いた。山口県の青海島にて

――この小説があったから、どこに行けばいいかわかったし、色々な土地を歩いて回ることができた。

うん。「密航者の群」、もっと上手に書いていれば、もっと読まれたかもしれなかったけれど。複雑な構造というか、中身も破綻してるので。主人公が途中で変わっちゃうし。

――編集者の適切なサポートとか、創作だけに打ち込めるような生活上の余裕とか、そういうものを彼が得られていれば、違ったのかもしれない。でも、それらはなかった。尹紫遠には。

「密航」した人の人生をたどる

尹紫遠の「密航」について、宋恵媛さんと改めて話をした。

このテーマについてはこれまでも何度も会話を重ねてきたが、宋さんが尹紫遠とその作品を最初に知るに至った具体的な経緯を聞いたのは、今回が初めてだった。

「在日朝鮮人文学史」を語るには、そこに含まれうる作品を読み、分析をし、解釈をするには、どんなにマイナーな作品であっても、マイナーな作品であるからこそ、まずはとにかくかき集めなければならなかった。それが宋恵媛さんのしてきたことだった。その中で、尹紫遠をも知った。

彼女が最初に出会ったのは、「密航者の群」という散逸した、しかしながら一つの作品だった。そして、たまたまの縁で尹紫遠のご家族と出会い、日記とも出会った。そこからまた新たに、歯車が回り始めた。

関釜フェリーの船内で

つい先日、私たちが書き終えた『密航のち洗濯』を読んだ翻訳家の斎藤真理子さんが、一連の経緯を「リレー」になぞらえてくださった。「100年を超えるこのリレーのアンカーは、読む私たちだ」と。その言葉をいただいて、なるほどと得心した。

尹紫遠は初等教育を数年受けただけで、卒業すらできていない。そんな人物が、底なしの執念で文章を書き続けた。自分の母語ではない言葉で書かれたその文章は、ほとんど読まれなかった。誤字や構成の破綻も少なくなかった。それでも消えずに残っていた。家族も捨てなかった。そして、数十年後にまだ知らないその文章を探している人がいて、その人は見つけた。彼女には届いた。

2024年。植民地で生まれた12歳の彼がひとりぼっちで故郷の朝鮮を離れ、初めて日本にたどり着いてから100年の時が経つ。そこから経験したあらゆる逆境や痛みを、彼は言葉に変えた。彼の文章は読まれるのだろうか。彼の人生は知られるのだろうか。かつて無名の人物が確かに生きていた。自分の存在を届けようとして、必死に書いていた。

『密航のち洗濯——ときどき作家』
文:宋恵媛・望月優大
写真:田川基成
(柏書房、2024年)

ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』から初の書籍化となる『密航のち洗濯——ときどき作家』が発売されました。ぜひお買い求めください。言葉を広めてください。彼とその家族の文章が、人生が、ほかの誰かに届きますように。

CREDIT望月優大(取材・執筆)、田川基成(取材・写真)

TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

ライター。著書に『ふたつの日本——「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書、2019年)。認定NPO法人難民支援協会が運営するウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』の編集長を務める。様々な社会問題に取り組む非営利団体等への支援にも携わっている。@hirokim21