2023.07.12

学校の跡地を「共生のとりで」に。大阪コリアタウンの隣に「いくのパーク」をつくる人たち

2023.07.12
望月優大

大阪市生野区。年間200万もの人々が訪れる「大阪コリアタウン」を北西部に抱え、外国籍住民が全体の2割を超える。

写真:田川基成(2022年10月末撮影、以下同)

これがどれほど高い割合かというと、生野区のような政令都市下の行政区まで含めても、外国籍住民が10%を超える地域(市区町村)は全国にわずか5つしかない。

大阪市生野区21.2%(外国籍人口 26,588人)
群馬県大泉町18.8%(同7,834人)
大阪市浪速区12.3%(同8,762人)
北海道占冠村12.1%(同149人)
横浜市中区10.2%(同15,491人)

ここに大久保を含む東京都新宿区が9.9%で続く。日本全体の2.2%と比べるまでもなく、生野区の21.2%が突出していることがよくわかるだろう(住民基本台帳、2022年1月)。

生野区には鶴橋の商店街も。日本国籍を持つ方の中にも、日本以外のルーツもある方々が少なくない。

「猪飼野(いかいの)」とも呼ばれるこの地域には、日本による植民地化(1910年)を経て、朝鮮半島の主に南部から多くの人々が移り住むことになった。

1922年には済州島と大阪を直行便の「君が代丸」が結び、コリアタウンの源流をなす「朝鮮市場」が生まれたのも、その頃だとされる。

さらに、現在の生野区では、日本の植民地支配に由来する「オールドカマー」が集住するだけでなく、家賃や物価の安さなどを理由に、中国、ベトナム、ネパールなどからの「ニューカマー」も増え続けている。

生野区民の国籍はおよそ60にものぼる

ニューカマーの中には、留学生、永住者、技人国(技術・人文知識・国際業務)や家族滞在の在留資格で暮らす人々が多い。

最新の統計(2023年3月末)によると、外国籍住民から韓国国籍あるいは朝鮮籍の住民を差し引いてもなお、生野区全体の6.6%を占めている。それだけで、埼玉県川口市(6.3%)など著名な集住地域すら上回る割合だ。

だが同時に、生野区全体の人口としてはむしろ減少傾向にあるということもまた重要な事実だ。生野区は大阪市の中でも少子高齢化が顕著な地域の一つであり、近年は小中学校の再編も進められてきた。

旧御幸森小

その過程で最初に閉校となったのが、コリアタウンのすぐ隣にある大阪市立御幸森(みゆきもり)小学校

1924年に創立され、2021年3月に閉校となる前の生徒数は全学年で70数名だった。7割近くが朝鮮半島にもルーツ(国籍は様々)を持ち、「民族学級」にも長く取り組んできた。

今回私が生野を訪れたのは、御幸森小の跡地をリノベーションし、生野区における多文化共生の拠点「いくのパーク」として立ち上げ直している人たちからお話を聞くためだった。

昨年10月末のプレオープンイベント「いくの多文化クロッシングフェス2022」。その後、今年の5月にグランドオープンを迎えた

いくのパークの運営の仕組みはこうだ。

まず「NPO法人IKUNO・多文化ふらっと(以下、多文化ふらっと)」と「株式会社RETOWN」の二者が共同事業体を組み、大阪市から学校跡地を借り受け、施設全体のリノベーションや維持管理を行う。

そのうえで、元々教室、校庭、体育館やプールだったところに、様々なお店やNPOなどがテナントとして入るという形だ。食、アート、福祉、労働、スポーツなどその範囲は広い。

入居するテナントは徐々に拡大中。図書室、保育所、市民農園。ダンスやバスケ、テコンドーのスクール。子ども食堂やオモニハッキョ(識字教室)。喫茶室やレストラン、ブルワリーも(写真:望月優大)

100年近くの時間を紡いだ小学校の閉校。その跡地の未来に関心をもつ「当事者」は数えきれないほどいる。なんと言っても、地域で暮らす人々の多くが卒業生だ。

私がお話を聞けたのは御幸森小の元教員、生野区長、大阪コリアタウン、そして多文化ふらっとやRETOWNに関わる方たち。

この記事で紹介するのは「御幸森小の跡地をどうにか良い形で残したい」との思いから、2019年に「多文化ふらっと」を作った森本宮仁子さん宋悟さんの言葉だ。

森本さんは保育士として長く生野の親子と関わり続け、宋さんは生野で子どもの学習や体験を支えるNPOを運営しながら、コリアタウンの事務局長も務めてきた。

大阪コリアタウン(御幸森商店街)の途中で右折すると「いくのパーク」はすぐ目の前。小規模の住宅が密集する地域で防災拠点の役割も担う。Maps Data: Google, ©︎2020 Image Landsat / Copernicus

「いくのパーク」という名の新たなプロジェクトは、生野のどんな歴史に根差し、どんな未来を見ているのか。まずは多文化ふらっとの代表、森本さんのお話から始めよう。

前編記事:生野で誇りを持って生きる。「生野に行くの?」とラップする区長。「共に生きる」を模索する人たち(*後編から読んでも大丈夫です)

一番大きいのは在日の問題

――いくのパークが何を乗り越えようとしているのか、伺いたいです。

森本さん(以下同):課題はいっぱいあると思っているけど、私の中で一番大きいのは在日の問題かなと思ってて。その人たちも3世、4世になってる。生きていくには生野というか、日本しかない。

森本宮仁子(もりもと くにこ)さん。保育士。いくのパークを共同運営するNPO法人IKUNO・多文化ふらっと代表理事(榎井縁さんと二人で代表を務める)。大阪聖和保育園の事務局長でもある

――生野で、日本で生まれ育っている。

そうなのに、日本社会の中では、在日の位置づけは全く変わっていない。いまだに国籍条項があって、思ってる職業に就けない人もある。で、選挙権がない。その在日という人たちがずっと生野にいる。

在日がなぜ生まれたかっていうと日本の植民地化からスタートする。日本の課題なのに、在日へのバッシングもあれば、差別の状況が止まらない。

それは、ずっと生野区の課題というか、私が持ってた課題。そこに、私らは保育園の中で「民族保育」っていうのを始めた。

大阪聖和保育園。大阪聖和教会に隣接。いくのパークからも歩いてすぐ。

――民族保育とは何でしょうか。

うまい定義はできていないんだけど、「人権保育」と「多文化共生保育」と「民族教育」の曖昧な融合と呼んでいます。

「あなたはあなたでいいんだよ」と伝えること。在日韓国・朝鮮人の子どもたちに「あなたの文化ってすごく素敵だよ」と。

日本人の子どもたちにも「すぐ横に違う文化を持った韓国・朝鮮の仲間もいるんだ」と感じてもらう。その両者が「共に生きる」というスタンスになってほしい。そういう願いをかけてやっています。

日本は差別する側やからね。差別する位置についちゃうので。自分がちっちゃい頃にそういう仲間がおったやんっていうことが、自分の中の、ちょっとした「とげ」になると思ってて。触るとちょっと痛い。

「おはようございます。アンニョンハセヨ。ザオシャンハオ…」8つの言語で挨拶する森本さん

――いつ頃から始められたんですか。

1982年から。在日の子は3世、4世、5世で、日本語しかしゃべれない。だから、言葉を教えてるわけでもなく、何か文化を継承したいわけでもなく。「民族保育ってなんや?」ってことを問われたりもするんだけどね。

結局何してるかって言ったら、なんてことないんですよ。おはようございます。アンニョンハシムニカ。いただきます。チャルモッケッスムニダ。韓国の手遊びを入れたり、絵本を読んだり。

そんなことをずっとやってきたけど。今またこの生野区の中にはベトナムやフィリピンや中国の人たちがやってきた。この人たちは1世。母語を持って、母国の文化を色濃く持って来ている。

「ネパールPOPソング」を歌う留学生たち

このままで進んでいくと在日と同じ歩みになるんじゃないの?って。ベトナム2世、フィリピン2世がここで育って、でも日本は何も変わらない。

マジョリティの意識がなかなか変わらへんですよ。マイノリティの子どもたちが自分のつながりのある文化とかルーツに自信を持つことはもちろんすごく大事なんだけど、それだけじゃなくって。マイノリティの課題は、マジョリティの変化がない限りは変わらない。

――根本的なところが。

だから、新渡日(ニューカマー)の人たちを含めて、いくのパークの中で何かが生まれていくことにならないかなっていう願いは少し持っている。生野区の中でマジョリティを巻き込んで、みんなで共生していく。そういうウェーブが作れないかなという願いがね。

だって、在日がもう3世、4世になっているのに、まだまだ差別がある。だからみんな通名を使ってるけど、差別がなくなったら本名になるやろなって思ったりするから。

工事が進む校舎内には、そこかしこに御幸森小時代の名残が残っていた

あなたはここにいていいよ

――通名を使われる人は多いですか?

ええ。うちの保育園なんか70%が在日で、本名使ってるのは10%ぐらい。それがもう、日本社会の現実。

入園のときに「名前どうされますか?」って聞くんです。ほんなら「本名使っていいですか?」って言いはったりするから「ぜひ」と言うんだけど、「先生やっぱりこっちにしとく」って通名にしたりとか。

日本社会は、そこに出て行けば、あなたは認められるとか認められないとか、できてるとかできてないとか、いっぱい分断をしていく要素がある。

障害のある子もそう。私らの保育所も色んな課題の親子をずーっと受け続けて来てる。障害のある子とない子が一緒にいれる場ができたほうがいいよねって。いくのパークにも一軒、障害者雇用のレストランが入ることになっています。

いくのパークの正式名称は「いくのコーライブズパーク」。ともに生きていくこと(CO)、尊厳を持つ人であること(LIVES)、開かれた場所であること(PARK)

――森本さんからは、この日本社会の中にポーンと放り出されて生きていくことが、差別をされるとか、勉強ができないとか、社会や他者からの評価をぶつけられて、あなたは低い存在だとか、迷惑だとか、役に立たないとか、そういう傷を受ける可能性がすごく高いものとして見えていますか。

見えてますね。格差はどんどん広がっていく。「あなたにもチャンスは巡ってくるんや」みたいに言うけど、そんなんごく一握りで。みんなどこかで蹴落とされていく。

学校の先生たちも苦しい。「あなたの教え方が悪いんだ」と指導の対象にされる。自分が教えたことを、子どもがわかってるかわかってないかで評価するぞって。だから、子どものせいにせざるを得ない。

ほんなら「わからない」って子が出てくると、この子は障害があるんじゃないか、発達検査しなさいって。あなたができる人なのか、できない人なのかっていうのはいつも測られてる。

――大人も子どもも、みんな評価されている。

そんなことの中から、いい教育ができるわけもなく、いい育ちがあるわけもなく。だからまずは「できなくていい」。そのままのあなたでいい。

誰かに「変わらなあかん」ということを強要される必要はない。そこから変わりたい自分には自分で変わっていけばいい。「そんなことしたらあかん」と止められることもない。

――お話を聞きながら、自分のままでいい、自分を低く見る必要はないという姿勢は、自分が住む地域への認識とも重なり合っているように感じていました。

生野区の人の中には「周りに治安悪いと思われてる」みたいな、マイナスの印象を持っている人もいる。

「隣の天王寺区は文教地区」みたいなイメージになってる。いい小学校、中学校が集まってるって。そして、いざとなったら引っ越していく。

でも、生野区は治安全然悪くないよ。すごくいいよ。でも、そう思い込んでる。教育も、実際そうかっていうと、そんなこともなかったりする。

だから、望月さんもそう、色んな方が「生野区すごいよ」って言ってくれたら、それが生野区の人たちの耳の中に入ってくる、目の中に入ってくる。

そしたら「あ、いけるかも」とか、ここに住んでる人たちの力をまた押し上げてくれるやろうし。

――いくのパークの運営上はお金のことも考えないといけない。その中で、お話くださった捉え方を共にしない事業者とも一緒にやらざるを得ないということもあり得るんでしょうか。

それはないですね。

――そこはもう、はっきりと。

はい。自分たちが何を目指してるのかということがあるので、それに合ったところでないと入らないです。利益だけを求めてるところではない。そこはみんな信頼できてるから。

私ら「共生のとりで」って呼んでますけども、社会の中で弾かれてるとか、うまくいかないっていう人たちに、「あなたのことを居場所として守りたいと思ってる」って。そういう願いは持っている。「あなたはここにいていいよ」って。

「自分の居場所はここだ」と思えたら、誰かの居場所を作れる人になるんじゃないの?って、そういう風にも思っている。

子どもたちのカフェ

いくのパークの1階にある図書室「ふくろうの森」に、写真家の田川基成さんと訪れた。

「NPO法人クロスベイス」と「多文化ふらっと」が共同運営する「体験活動DO/CO(どこ)」の一貫で、子どもたちがジュースやお茶などを販売するカフェを開いていた。

――こんにちは〜。

子どもの店員さん(以下同):こんにちは〜。

――どれにしようかな。これは何ですか?

あ、韓国ジュース。「BONBON」っていう桃ジュースです。

――じゃあそれにしよう。田川さんはマンゴー?じゃあ「BONBON」とマンゴージュースもください。

ありがとうございます。400円です。

――じゃあ500円で。

えっとー、一緒に?

――うん、一緒に。

じゃあ、100円のお返しになります。ありがとうございます。

――ありがとうございます。あ、金さん、お疲れ様です。お店のほうはどうですか。

金和永(きむ ふぁよん)さん。NPO法人クロスベイス事務局長。NPO法人IKUNO・多文化ふらっとの職員でもある

金さん(以下同):めちゃくちゃ繁盛してて。売り切れがもうかなり出てるので。

――図書室は普段どういうスペースになるんですか。

ここは地域の方に開放してて、9時から17時までの間はどなたでも来ていいですよってしています。絵本とかを多く置いてあるのと、授乳とかができるスペースを裏に用意してて。

――ご自身もお生まれはこのあたりですか?

私は大阪生まれで、小学校1年生のときからずっと近くに住んでて。ただ、住んでると逆にあんまりわかんないというかね。

鶴橋のほうにいてるんですけど、こっち(御幸森のほう)までは来てなくて。クロスベイスの立ち上げ(2017年)から関わらせてもらったんですけど、それで新たに知ったという感じです。

――地元でも見えていないことってあるかもしれないですね。

そうですね。学習支援は今45人くらいいてるんですけど。小学生から高校生まで、外国ルーツと限っているわけではなくて、とにかく教育格差につながらないようにって。

色々な言語の絵本

色んな家庭環境の子が来ています。大阪市は教育バウチャーみたいなものがあって、それを使ってる子が多いですね。

――今日来てるのは普段の活動でつながっている子たちですか。

学習支援教室と子ども食堂に来てる子どもたちがメインですね。

――近くから来てる子が多い?

比較的近いですね。自転車で来れるくらいの距離で。ここの小学校出身の子もいっぱいいてますし。

――どんな飲み物を売ろうとか、一緒に考えてこられたんですか。

そうです。商品はこっちからも提案して、子ども食堂でみんなで試飲して選んだり。「なた豆茶」は大阪に無農薬で栽培してるところがあって、そこからいただいて。みんなで粉を測ってティーバッグに入れて、みたいなことをやって、今出してます。

――いいですね。こういう、自分でやる側に回るって。

みんなほんまにすごい楽しそうで。カフェやんの好きみたいです。

多文化共生の街をつくる

いくのパークに関わる様々な人々の結節点となっているのが宋悟(そん お)さんだ。プロジェクトの成り立ちから、宋さん自身の来歴まで、お話を聞かせていただいた。

宋悟(そん お)さん。いくのパークを共同運営するNPO法人IKUNO・多文化ふらっと理事。NPO法人クロスベイス代表理事、一般社団法人大阪コリアタウン事務局長も務める

――いくのパークのプロジェクトが始まったそもそもの経緯から伺ってもいいですか。

宋さん(以下同):元々は生野区の西側、12の小学校を4つに縮小再編するという話で、その1校目がこの御幸森小。

跡地活用の公募があって、多文化ふらっととRETOWNで共同事業体を組んで、選ばれました(2021年10月)。

――学校の跡地を丸ごと運営するということですか。

そうです。指定管理者制度とかじゃなくて、大阪市から土地と建物含めて貸しますよと。賃料と維持管理費と払って全部やってねと。

――再編の話はいつ頃から?

前の前の生野区長の時代から統廃合みたいな話はあって、それで前の山口照美区長(在任2017〜21年度)がこれは放っておけないということで手をつけたというかね。

いくのパークの周辺は細い路地で囲まれ、住宅や商店が密集している

僕らも当時から、今一緒にやってる仲間で何とかしなきゃという話もしてて、森本さんがオルタナティブスクールみたいな構想を持ってたり。

「森本組」という名前で活動も始めて、生野での多文化共生のまちづくりについてのシンポジウムをしたりね。それで、2019年6月に「多文化ふらっと」を立ち上げてます。

同じ頃に区役所が「生野区西部地域の学校跡地を核としたまちづくり構想」という文書もまとめてるんですよ。そのコンセプトが「みんなの学校」とか「まちぐるみ教育」やったかな。

――それは生野区側の動きとしてまとめたということでしょうか。

そうです。そのもとで御幸森については、御幸森小の「学校跡地検討会議」というのを作って、地域の意見も吸い上げると(2019年8月〜20年2月)。

委員には、まち協(地域まちづくり協議会)の人たち、PTAの人たち、それと地域から公募するというので、僕とか森本先生とか足立さん(御幸森小の元教員)も入ってますわ。そこで、ああでもないこうでもない言うて。

御幸森小で長く教員を勤めた足立須香さん(中央左、紫の服)。構想初期から森本さんや宋さんと共に活動してきた

コリアタウンも近いから「多文化共生」という観点を入れやないかんとか、「社会的包摂」という観点を入れやないかんとか。最終的に生野区が作った跡地活用事業のプロポーザルの「実施要領」にそんなんも盛り込まれてます(2021年3月)。

――その公募にRETOWNさんと共同でプロポーザルを出して選ばれたと。ボトムアップ的な皆さんの動きと、区としての構想が合流していったような形で。

そうですね。

――そもそもの前提として、跡地を売ってマンションにしてしまうといった形は、大阪市や生野区が選ばなかったわけですか。

うん、そこは僕らの力じゃなくて、山口(前)区長が頑張ったんとちゃいますかね。教育に対して色んな思い入れも持たれてるので。

それと、学校の周りに長屋とかが密集してるので、地域の防災とか避難所の機能が必要になるっていうことでね。もしその機能が必要なかったら、しんどかったかもしれない。

パートナーの存在

――RETOWNさんとは、どのタイミングで一緒にやろうという話になったんですか。

2020年の秋ぐらいかな。難波にある本社に行って松本社長と話して。そのとき、僕の印象は即決だったんですね。一緒にいくのパークを引き受ける人だと感じて、いけるなと思って。ぜひ組みましょうかと。

株式会社RETOWNの松本篤代表取締役

まちづくりには「関わる人」と「引き受ける人」がいて、もちろん両方が必要だけれども、最後は「引き受ける人」がやっぱり必要で。

松本さんがそのとき言ったのは「RETOWNはリスクテイカーだ」と。実際に汗をかいてまちづくりを担う人は少ないけど、自分たちはやると。

――RETOWNさんの会社概要を見ると、所在地がいくのパークの住所になってますね。難波から生野に本社も移されたんですか。

そう。今年(2022年)の6月にね。

彼らは大正区で「タグボート大正」という複合施設を運営してて。尻無川の複雑な利害があったみたいなんですけど、そのときの筋原さんという大正区長が行政の中で港湾の専門家としてずっとやってきてた人で、RETOWNとタッグを組んでやっていった。

で、その大正区長だった筋原さんが、今の生野区長なんですよね(2022年度〜)。それも偶然なんですよ。

筋原章博生野区長

――そんなつながりも。今後の運営というか経営としては、基本的に黒字にしていかないといけないわけですよね。

もちろんそうですね。賃料とか維持管理費とか、いくのパークを最低限維持するためのお金っていうのは、基本的にはテナント料で成り立つようにしてるんです。

一坪なんぼっていう設定はRETOWNさんが決めていったんですけど、「安く設定します」と。これはもう、ここの持ってる性格もあるし。まちづくりのね。

――パブリックな性格ですね。NPOなどの入居も多いですよね。

でも赤字出したらあかんから。それだけですね。

あとは、うち(多文化ふらっと)の場合で言ったら、実際の事業費とか人件費は別に稼がないとダメなので、受託をするとか、収益部分をするとかね。収益部分というのはBBQで、RETOWNさんとうちの共同経営。

屋上のプールを改装してBBQができる屋外レストランに(写真:望月優大)

うちは食のノウハウとか経験がないので、ほとんどRETOWNさんがやるんですけれども、利益は半々です。

松本社長に「それはほとんどそっちがやることになるんちゃいますか?」と僕が言うたらね、「いやいやもう、それはそれでいいんだ」と。

三重にいた頃はほとんど隠して生きてきた

――宋さんは生野のお生まれですか。

いえ、生まれ育ったのは三重県です。鳥羽とか伊勢とか。高校も伊勢神宮のすぐ近くの普通の県立高校で。大学で京都に。

三重にいた頃はもうほとんど隠して生きてきた、いうかね。通名で。

――在日の方たちのコミュニティとつながれるような環境ではなかったですか。

ないない。ほとんどないので。自分の親戚とかね。

鶴橋とかこの生野のあたりが在日の全体で見たら特殊ですよ。みんなほんまに分散して。学校で数人とか、兄弟だけとかね。今はもっとそうですよね。

まあ、在日コリアンとしても、韓国人としても、自尊心みたいなものを育む機会も場も全くないので。

そのときの言葉で言うたら、いわゆる民族虚無主義の中にいた。あれは不思議なんやけれども、知らんうちに、段々そうなってしまうんですよね。

――生野のような集住地域で生まれ育つのとはまた違う経験だった。

そうそう。それで、大学が同志社で、そこで初めて在日の先輩とか同じ世代と会う機会があって、180度変わる。何で日本にいてるのかとか、日本での法的地位の問題とか。日本の帝国、植民地支配の中で、闘ってきた歴史もあったり。そういうことを知るとか、学ぶことで。

入学したときが1980年で、韓国で言うたら光州民衆抗争(1980年5月)。そこで自分の人生、決まってしまいましたね。がっくーんと、後ろから前から、頭叩かれたみたいに。同世代の大学生たちが、立ち上がって、虐殺されていって。激動の80年代を迎える。

ほとんどもう、大学なんか行かんと、韓国民主化運動の集会やったりデモやったり。麻布にある韓国大使館に抗議行ったり。有栖川公園にみんな集まって「行けー」とか言って。そういうのばっかし、毎日やってました。

金大中の死刑判決(1980年9月)が出て、大阪で日韓の連帯の運動が始まっていったり。四条河原町のところでマイク置いてアジって。ビラまきうまいですよ(笑)。最近はしませんけどね。あそこでハンストやったこともある。

――韓国の民主化運動に、学生運動にコミットしていかれた。

大学に行きながら、京都の東九条の青年団体にも入って。地域の在日同胞って大学卒業してる人なんて誰もいない。みんな土方やったり、電気の整備工をやったり。彼らと一緒に韓国語を勉強したり、歴史を勉強したり、集会に行ったりね。

そんなこともしばらくやって、組織が分裂したりも経験して。そういうときって結構しんどいですよね。そのあとまたKEY(在日コリアン青年連合、1991年〜)やって、コリアNGOセンター(2004年〜)の初代の代表をやって、茨木にあるコリア国際学園(2008年〜)に。

――先日ヘイトクライムの被害にあった学校ですね(2022年4月)。

そう。あれを作ったときの最初の7人の1人でした。在日コリアンで初めて弁護士になった金敬得(きむ きょんどぅく)という東京の人がおって、旗揚げて、僕も入って。それも大変でした。「境界をまたぐ越境人」っていう建学の精神をまとめてね。

生野区のしんどい子たちの1割でも

――長く子どもたちのことや教育にも関わられてきた。

2016年からは1年間失業してて。

今でも覚えてるけど、下の娘が大学終わって就活してて、長男が転職するというときで。娘から「アッパ、宋家ピンチ!誰も働いてる人いてない。収入がない。なんでアッパ失業中やの!」って(笑)。

そのとき55やったんです。ちょっとまだ早いなと。何しようかな、何しようかな。行き場所なかったので、一番よう行ったのは東成区の図書館。朝一番に行くと、僕みたいなやつが何人かいた。挨拶はせえへんけども(笑)。

――その頃はこのあたりに住まれてたんですか。

コリアタウンに。すぐ近くに。もう30年ぐらい。

――その期間を経て「クロスベイス」を立ち上げられたんですね。子どもの学習支援や体験活動に。

もういい歳なんで、お世話になった地域に何か還元しようと。で、自分がやってきたことで言うたら若い世代とか子どもに接してきた経験があるから。そこと、在日のコリアンだっていうことのこだわりがね。

子どもたちの貧困の問題もあった。生野区は就学援助が3人に1人で全国平均の2倍以上。空き家率は5軒に1軒。都市の課題が集約してて。

最初は駅の近くがいいかなあと思って、鶴橋の小さなビルの物件とか見に行ったりしたけど、最終的にはコリアタウンでしょうと。それで、コリアタウンの事務局の委託も受けるようになって。

――コリアタウンもその頃から。

そうそう。クロスベイスの「クロス」は交差するところに新しい価値ができる。「ベイス」は土壌を耕す。だから今の「多文化ふらっと」の考え方と一緒やね。

上からでもなく、放任でもなく、ぎりぎりのところの「間」を作る、みたいな。子どもたちが自主的にわちゃわちゃできるような。

生野区の公立の小中学校に通ってる子たちが6000人。そのうちの3分の1が貧困家庭だから、やっぱり2000人ぐらいいてる。

そのうちの1割ぐらい、200人ぐらいは毎週いくのパークにわちゃわちゃ来てほしい。3年先にそうなったらいい。今は60人。

電気の基幹工事とか、給排水設備とか、初期投資で7千5百万くらいかな。NPOとして投資した。身銭切って、色んなところからお金集めて、大きな借金も抱えて、みんなようやるなと思うけど。

生野区のしんどい子たちの1割がここに出入りしてたら、その甲斐はある。それぐらいやったらええんちゃう?と。

ここを出て東大行くやつもおるかもしれないし、寿司屋になるやつがおるかもしれない。色んなやつがここに混ざってるんやと。まあ、みんなが友達になる必要はないけど、あそこでなんか過ごしたよねっていう。そういう場所にここがなっていったらいい。

――なっていったらいいですね。

このあともし時間あったら食事でも行きませんか。森本先生(前出の多文化ふらっと代表理事、森本宮仁子さん)も来る言うてたから一緒に。お酒を愛する人ですので。

――ぜひぜひ行きましょう。

森本さん、宋さんとの夜

宋:何飲みますか?

――じゃあ生で。

宋:えっと、すみません。生中と、生小と、あと角のハイボール。森本先生が最初に何飲むかはもうわかってるから。

――生小から。今日のクロッシングフェスはにぎわってましたね。

宋:RETOWNの松本社長が「このゆるい雰囲気がええ」って言ってましたね。

森本:「ふらっと」の場でなかったら自分もゆるい雰囲気をノリノリで楽しむんだけど(笑)。今日は責任を取らなあかん立場の一人なので、硬い顔してます。

宋:森本先生の場合は(保育園で)40年やってたら、自分のやった子どもたちがもう親になってたりとか。

――地域の人たちがみんな卒園生というか、知ってる感じですよね。

森本:そうそう。うちの保育園が92年目なんです。だから、聖和保育園出て、御幸森小学校行って、大池中学校行きましてっていう人だらけや。隣の人も、向かいの人も、斜め前の人も、みんなそうや。

宋:森本先生のところが、保育施設の一時預かり所を3階でやりますよ。

――いくのパークに聖和保育園の出張所を作るような感じですか?

森本:そうそう。色んな理由で一時利用する人のですね。待機児童も利用するし、週に3日だけ仕事があるとか、子育てがしんどくてたまらんとか。

だけど建物が学校仕様やから改装するのが大変。学校と保育所で全然違うんです。壁から全部、防火区画っていうやり方に変えないと。扉も学校のじゃダメ。避難経路が二箇所いるとか。

宋:基本的な工事はうち(多文化ふらっと)とRETOWNがやるけども、改修工事はテナントが全部やる。

――そうか、同じ森本さんが「多文化ふらっと」としては全体の運営で、「聖和保育園」としてはテナントとして入る形になるわけですね。

「いくのパーク」に流れ込む歴史

――森本さんは元々このあたりのご出身ですか。

森本:いえいえ。私はね、堺(大阪府堺市)の生まれなんです。で、父の仕事とかで、色んな地域に住んでいたんだけど。

小学校3年で、父の転勤で生野の東のすぐ隣の街へ来た。そっから生野区に出会っていく。在日にも出会っていく。堺にいた頃は在日のことをあんまり意識してこなかった。いたと思うけど、気づいてないだけのこと。

で、こっちに来て、裏の家がゴムの加工をしてる。家内工場。在日の方です。ゴムをカットするからすごいにおいがして。ええっと思って。

ま、そっから自分が「差別する人」っていうことに気づいていくんやけど。親なんかは単純にもう「あんな仕事をしてるのは朝鮮人や」っていうようなことを言う。差別する父と母やったね。あの年代の人たち。ばりばりそんな。

――それが普通くらいの。

宋:そうそう。

森本:あ、生小と。

宋:ハイボールと、よもぎのチヂミ。

森本:大学で保育を勉強したんだけど、そのときの実習が生野区やって。若いときに、そこにはまっていった。それが「生野こどもの家」やから。

――保育園ですか?

森本:えっとね、障害児の通園施設。カトリックの神父が作った施設なんだけど。ドイツの方でライムンド・チネカ神父って。もう亡くなりましたけど。

あっちこっちから障害のある子を集めてくるんやけど、できるだけ地域社会に戻そう戻そうとする。近くの保育園に出していくとかね。社会福祉法人の聖フランシスコ会がやってて。

――キリスト教との関係性で言うと、釜ヶ崎の歴史にも近そうですね。

森本:近い近い。釜ヶ崎のことはわかりますか。

――「ニッポン複雑紀行」で釜ヶ崎キリスト教協友会の吉岡基さんにお話を聞いたことがあります。

森本:よしぼん?

――そうですそうです。「よしぼん」さんです。

宋:生野の街にとっても教会の役割って結構大きいですよね。

森本:大きいです。オモニハッキョ(主に在日コリアン一世女性のための識字教室)も聖和教会で始めてる。1970年代です。

宋:森本先生ね、今日もちょっと望月さんと話しとって。生野区って障害とか、福祉のNPOが多いじゃないですか。それは歴史的に言うたら何ですか。生野区NPO連絡会の副代表になって、50ぐらいNPOあるんですけど、大阪の中で結構多いんですよ。

僕の仮説は、大阪がどんどん大都市になるときに、色んな人たちが入ってきて。しんどい人たち、色んな問題を抱えてる人たちがここに来てるから、朝鮮人もそうだし、日本人もそうだし。それを、しゃあないなあ、なんとかせないかんなあと思う人たちが出てきて。

だから、多文化共生が今始まったわけではなくて、土壌で通底してるのは、しんどい子たちとか福祉とか、ずーっと支えてきた地べたの大衆運動みたいなものがあって、それが「いくのパーク」にもつながってる気がするんですよね。

森本:そうです。うちの社会福祉法人(聖和共働福祉会)も在日の民族保育をしたり、オモニハッキョに場所を提供したりしてきて。

今はそこでやろうとしてたものを全部いくのパークで集約してる。(各団体や組織が)それぞれでやってた課題を集中させてる感じがしてる。

空手演武を披露する日生日本語学園(生野区巽北)のネパール人留学生

宋:僕の子どもたちは聖和保育園に行ったから、森本先生も昔から顔は知ってる。けどもやっぱり、いくのパークになってから仲間になってる。そういうのは面白い。

――近くて遠いという。

宋:そうそう。何かがないとね。

私らは生野を離れない

――跡地の話が出てきたとき、森本さんの中で「この場所を生かしたい」という思いが強くあって、オルタナティブスクールのアイデアなどを出された話を聞いて。

森本:ぱらぱらっと書いたのを皆さんに出したやつな。

宋:俺が一番最初に出そうと思ったら先越された(笑)。

森本:最初にそのペーパー書いたときは、全部を経営するっていう印象ではなくて、本当にかわいく、自分が望む公教育のあり方っていうか。ルーツも、障害も、親の心配や、子どもへの不安含めて、一緒に生きていくような。

うちを卒園した後に「先生お願い、小学校も作って」ってずーっと言われてた。小学校に行った途端、急にしんどくなっちゃう。

だって公教育やで。誰がいてたって、そこでみんなが生きる、居場所があるっていうのが普通でしょ。でもそれが居場所を奪われるんだから。

宋:その中でどんだけの子どもたちを潰してきたんやと。

――そういう会話から、今のいくのパークにつながってきてるんですね。

森本:多分ね、私らって生野区を離れない人なんですよ。ずーっと来たし。宋さんもやし。ここを離れない、私たちは。

――死ぬまでいる。

森本:いるだろうと思う。どこかに行くっていうことがない。この地域への思い方。運命共同体的な。

宋:いや、僕はあと3年ぐらいしたら玉造(中央区と天王寺区にまたがる地域)くらいにちょっとマンション買って(笑)。大阪城公園の近くで。

森本:言うてることが違う。「シニアクラブ作る」って言うてたやん。

宋:僕の夢は、いくのパークのシニアクラブを作りたい。芝生の刈るやつ。リーダーに今から手あげてるんです。

――芝生のおじさんに。

いくのパークの市民農園

森本:私はこの場所を、いくのパークを、心象の原風景みたいなこととして埋め込みたいと思っている。

宋:大阪はまだギリギリのレベルで昔の解放教育とか人権教育とかが残ってる。20代、30代、40代ぐらいの世代にどうやってバトンタッチできるのかっていうね。

森本:今やってるのって50代、60代だからね。

宋:それもあと5年、10年で。そのチャレンジも、いくのパークにはあると思ってる。

――タイムリミットが。

宋:そう。でも、森本先生は「200歳まで生きる」言うて。

森本:あと140年ぐらいあるからね。大変や。

宋:もう妖怪ですよ。いくのパークの妖怪。

森本:怖い。寂しい。もうみんないない。昔おったんや、宋さんっていう人が(笑)。

――(笑)。

取材後記

森本宮仁子さんと宋悟さんからお話を伺って、そしてたくさんの人で賑わう「いくのパーク」での時間を過ごしながら、私はこのスペースがその外部に向かって「開く」ことと「閉じる」ことについて考えた。

一方には、どこまでも広く、開こうとする意思がある。子どもたちが学び、好きに遊べる場所。大人たちが頼り、地域の人々が集い、新しい住民が受け入れられ、息をつける場所。さらには私のようなよそ者が訪れ、楽しめる場所であることも、目指そうとしている。

その一方で、この社会の理不尽や痛みから人々を守り、防壁になろうとする強い思いも聞いた。せめてここだけは「あなたはここにいていいよ」と言える場所にしたい。あるいはその価値観が消えず、社会に変化を促す拠点として、ずっとあり続けたい。

「共生のとりで」というコンセプトは、この二つの志向性をつなぎ合わせるものとして、あるような気がする。

写真:望月優大

6月に「いくのパーク」を再訪すると、入口のそばに「喫茶室みゆきもり」がオープンしていた。

こんな風にして、行くたびに少しずつ変化がある。ミックスサンドと迷ったあげく、唐辛子風味の赤いコロッケ定食を選び、ドリンクのセットはカフェオレにした。

その日厨房に立っていたライアンさんは、「いくのパーク」の1階にある喫茶室で働きつつ、2階の「多文化ふらっと」では子どもたちの学習支援にも携わっているという。

「海外ルーツの子たちに対する支援は本当にまだ足りないところが多くて。ここは課題を見つける場所でもあるかなと思っていて」

学習支援をきっかけにして、地域の子どもを見守れる関係性を築くことが、虐待の防止などにもつながっていく。入管や反差別のテーマにも取り組んでいるそうだ。

ライアンさんは、多文化ふらっとが開講した「EMPATHY=DO(エンパシード)」にも参加した。海外ルーツの高大生が海外ルーツの小中学生をサポートするための育成プログラムだ(写真:望月優大)

私自身、生野には過去にも何度か足を運び、鶴橋、桃谷、コリアタウン、そして御幸森小のそばも歩いたことがあった。歴史的な重みはもとより、地理的な意味でも、この校舎と敷地がどれほど重要な場所にあるか、行ってみればすぐにわかることだ。

古くからのお店や住宅が密度高く並ぶ街の中で、この開けた空間は特別の意味をもつ。だからこそ、それが「学校」というパブリックな存在であることをやめたあとで、そこに何を残せるか。何をつくれるのか。

その一つの答えとして「いくのパーク」は構想された。

ルーツ、障害、貧困。自分にはここしかないのに、ここで生きるのがしんどい。そんな思いや現実がそこかしこにあるのなら、ここを変えていく。ここを変えていこう。

別のどこかではなく、ここでやってみよう。だから、楽しいときも、そうでないときも、ここに来ればいい。ここにいてもいいよ。

そんな声がきっと聞こえてくる。コリアタウンの隣にある「いくのパーク」のほうから。

次回のいくの万国夜市は7月22日、23日の土日開催。誰でもふらっとぜひ。多国籍屋台の出店者やステージの出演者など最新情報はいくのパークのインスタへ。オリジナルのクラフトビール「いくのIPA」のお披露目もあるそう。

CREDIT望月優大(取材・執筆)、田川基成(取材・写真)

前編記事もぜひ合わせてお読みいただけたら嬉しいです → 生野で誇りを持って生きる。「生野に行くの?」とラップする区長。「共に生きる」を模索する人たち
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TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

1985年生まれ。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長。著書『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)。代表を務める株式会社コモンセンスでは非営利団体等への支援にも携わっている。@hirokim21