2023.02.21

私があなたに最初に語りかけた言葉で。「移民の子ども」に母語を伝える「継承語教室」の意味。#移住女性の声を聴く

2023.02.21
望月優大

「すごいです。本当にすごいです」

大阪大学特任教授の榎井縁さんは、尊敬と称賛の言葉を何度も口にした。東北各地で移民第一世代の親たちが取り組む「継承語教室」についてだ。

榎井縁さん。大阪大学大学院人間科学研究科特任教授。中学校教員、大阪市教育委員会相談員、とよなか国際交流協会の事務局長兼常任理事などを経て現職。専門は教育社会学。共著に『外国人の子ども白書』『公立学校の外国籍教員』『日本の外国人学校』など。

外国籍住民の割合が少ない東北各県には、少数の朝鮮学校などを除き、移民などのルーツを持つ子どもが母語や複数言語で学べる「外国人学校」「民族学校」「インターナショナルスクール」といった教育機関がほとんど存在しない。

そうした東北の逆境の中で、留学や日本人男性との結婚などを機に来日した移住女性たちは奮闘した。様々な地域で独自に小さなグループを作り、日本で(生まれ)育った子どもたちに、母語や文化を伝えようとしてきた。

この日、榎井さんや私が福島を訪れたのは、そんな東北各地の移住女性たち同士をつないできたコミュニティ「福島移住女性支援ネットワーク(略称:EIWAN)」の集まりに参加するためだった。2012年の結成から「10年のつどい」だ。

EIWANでは、移住女性たちを対象とする各地の「日本語教室」を支援しながら、子どもたちに母語を伝える「継承語教室」のサポートにも並行して取り組んできた。

震災後の被災地支援に直接の起源を持ち、福島を中心に活動してきたEIWANだが、そのつながりは福島にとどまらない。宮城、山形、新潟の団体が運営するものも含め、これまで関わってきた継承語教室は全部で10にものぼる。

福島県の中通りに位置する須賀川市の「つばさ〜日中ハーフ支援会」もその一つ。2011年の設立以来、須賀川に暮らす中国の女性たちは、周囲に田んぼが広がる地元の公民館を借り、月に2回、3回と、自らの子どもたちに中国語を教え続けてきた。

「つばさ」で事務局長を務める中国出身の城坂愛さんは、活動開始のきっかけを振り返ってこう語る。

「お母さんたちの願望としては、自分の子どもたちも自分たちの母語を話せば嬉しいなあという、その簡単な思いで始まったんです」

「EIWANのおかげで私たちね、横のつながりがすごく強くなって。みんなで一緒にこの社会を変えていく努力をしてる。私たちだけじゃないって。すごく安心感もありました」

左から二番目が「つばさ〜日中ハーフ支援会」の城坂愛さん。その右隣が郡山市の「日中文化ふれあいの会〜幸福」の李莉岩さん。いわき市の「福島多文化団体〜心ノ橋」と共に、福島県内の継承語教室同士で励まし合ってきた。

この記事では、継承語教室を運営する女性たち自身の声、継承語教室で出会った子どもとの会話、EIWAN代表の佐藤信行さん、そして大阪大学の榎井縁さんに伺ったお話など、順に紹介していく。

榎井さんは、かつてEIWANのイベントでこう問いかけた。日本社会には「日本語や日本の文化が主流でそれが当たり前だ」という考えがないか。そして、その考えが「そうではないものを抑制したり、剥奪するような、見えない圧力をかけているのではないか」と。

日本に移住した親たちの願いや努力、子どもたちを取り巻くハードルや困難を理解するには、それらの背景をなす日本社会の「主流」や「普通」の自明視それ自体を見つめる必要がある。

親から子どもに「最初に語りかけた言葉」の意味を、この記事を読みながら考えてみてほしい。

*継承語(Heritage Languages)という用語は多くの人にとって耳慣れないかもしれない。榎井さんに伺った定義では、「習得する順序としては最初の言語であるけれども、他の支配的(主要)言語に切り替えられたために(第一言語として)完全には習得されていない言語」とされている(言語学者のマリア・ポリンスキー氏による)。
仙台市の「瀛華(インカ)中文学校」の初級クラス。
毎週日曜日の授業には遠方からも親子が集まる。

それぞれの願いと経験

子どもたちへの言葉の継承について、日本に移住した女性たち自身はどんなことを考えているのだろうか。

宮城県で子ども向けの中国語教室を運営する「宮城華僑華人女性聯誼会(略称:宮華女)」の女性たち6人にお話を聞いた。

2016年設立の宮華女もEIWANにつながり、宮華女の裘哲一さんは、各地の継承語教室が集まるEIWAN主催のイベント「子ども多文化フォーラム」の運営にも携わってきた。

左上から時計回りに、菊地紅子さん(1989年来日)、裘哲一さん(同91年)、梅琴さん(92年)、朴仙子さん(08年)、王立雪さん(09年)、汪小燕さん(19年)。今は来日時期の早い立ち上げメンバーから次世代に運営の中心をバトンタッチしている最中だという(代表は裘さんから朴さんへ)。

6人の経験には共通する部分がある一方で、来日の時期(1989年〜2019年)や経緯(親戚、結婚、留学、仕事)、中国での民族や母語のあり方(朝鮮族、東北地域出身)、夫の出身国(中国、日本、フィンランド)など、それぞれに異なる部分も少なくない。

子どもについても、生まれた国(日本、中国)、年齢(小学生〜成人)、現在話せる言語(日本語のみ〜日中英のトリリンガル)など、その状況は様々だ。

――今日はよろしくお願いします。ところで皆さん、さっきまでずっと中国語でお話しながら爆笑していましたが、何の話をしていたんですか(笑)。

王立雪さん:すみません、失礼しました。さっきそこの入り口の「ドア閉めて」って誰かが言ったんですけど、私の出産のときに、痛くてたまらなくて、ちょっと声が大きくて、助産師さんが一言も言わずにそっとドアを閉めてくれたという話をしていて(笑)。

王立雪さん。2009年に留学で来日。夫も中国出身。8歳の長男と5歳の次男はともに日本生まれ。

――それで皆さん爆笑を(笑)。今日はご家庭での言葉のことやお子さんの継承語などについて聞かせてください。

王立雪さん:うちはパパも中国人で、家でのメインは中国語です。中国の東北弁ね。

中国の絵本とかも買って読んであげたり、前は結構習字もしました。おじいさん、おばあちゃんと話しても中国語使うので、必ず継続して使ってほしいです。

――おじいさんとおばあさんは中国ですか?

王立雪さん:パパ側は日本にいて、私のお父さんお母さんは中国に。オンラインで話し合いです。

――汪さんのご家庭はどうですか?(*汪さんには中国語でお話いただき、通訳いただいた)

汪小燕さん: 私も夫も英語圏で学位を取っていて、子どもと英語でも話しています。子どもはトリリンガルです。

汪小燕さん。2019年来日。夫も中国出身。8歳の長女は中国生まれ。

ただ、2年半前に日本に来たときは日本語が全然できなくて。なるべく日本人と遊んだり、日本人のいる環境の中に入れようとして頑張っていたんです。

でも、子どもってやっぱり習うのが早いので、今は逆に日本語にシフトしている中で、中国語を忘れるんじゃないかなってすごく心配です。

――日本語を伸ばしつつ、中国語も忘れてほしくない。

汪小燕さん:今は毎朝お父さんから宿題を出していて。一枚の紙に漢字とピンインというふりがなを書かせて、一週間練習したものを週末テストして、全部合格できたらお小遣いをあげています(笑)。

――王さんと汪さんはご夫婦ともに中国出身ですね。

梅琴さん:私もです。娘は4歳で日本に来て、夫婦で決めたことがあります。小学校までは中国の教科書一式を全部取り入れて自ら教えるんです。下の子を背負いながら上の子に教えていました。うちは教育に厳しいです。お父さんも厳しい。私も厳しい(笑)。

梅琴さん。1992年に夫の留学を機に来日。夫も中国出身。現在30代の長女は中国生まれ。20代の長男は日本生まれ。

小学校に入ったら運が良くて、周りに中国出身のお母さんたちがいて、一緒に中国語クラスを作ったんですよ。

学校の先生たちの励ましもあって、娘は中国語を勉強する意欲が増したと思います。ある時期に同じ学校に一人の中国人の女の子が入って、全然日本語がわからないから、娘が校長先生から頼まれて通訳しました。

――息子さんはどうですか?

梅琴さん:息子は日本生まれで「なんでみんなと違う中国語を勉強しなきゃいけないの?」ってちょっと拒否があって。だからあまり上達しないです。でも大学入った瞬間に後悔しました。

バイトの時に中国人のお客さんから「あなた中国人なのになんで中国語できないの?」って言われて。名札に名前が書いてあるから中国人とわかって。それですごく衝撃を受けて、勉強するようになりました。

今はおじいちゃんおばあちゃんと話できるくらいのレベルにはなっています。それは良かったです。小さい頃から教えていたので発音はうまいんです。

――同じ家庭でも違いがありますね。菊地さんはいかがですか。

菊地紅子さん:うちの旦那は中国語全くしゃべれないです。子どもはかなり大きいので、もう成人になって、結婚して、赤ちゃんも産まれたんです。

菊地紅子さん。日本にいた親戚とのつながりで1989年に来日。夫は日本出身。20代の長男、長女はともに日本生まれ。

上の子ども(*長男)が1歳で中国に行ったときに、私のお母さんと2年間暮らしたんです。3歳で帰ってきたときはペラペラ中国語だったんですよ。

で、私も仕事してるから、子どもを保育園に入れないといけない。保育園の先生が「一言も日本語しゃべらないと困るからなるべく家でも日本語を教えてあげて」って。

中国語もそのまま続けて、日本語も覚えていくつもりだったんだけど、結局3ヶ月で中国語全部抜けちゃったんですよ。今も中国語は全然。ニーハオくらいはわかる。

大学院生のときに日本のチームで広州の研究発表会に参加して、そこで世界の学生たちと英語では会話できたけど、中国語はできなくて。

それで「ああ、俺あのとき、二年間中国のおばあちゃんに育ててもらったときの言葉を続けてれば良かったのに」って自分で言ってたの。

うちの両親がこっちに来たときも、旦那も日本人だから、全然会話できないわけなんですよ。うちのお父さんも中国では学校の先生だったので、自分の孫と交流できなくてすごい悲しいというか。言葉は教えてあげないとダメだよって。

――国際結婚で家庭のなかで中国語を使わない場合は、中国語をお子さんに伝えるのがより難しそうですね。娘さんも似た状況ですか。

菊地紅子さん:娘は高校の第二外国語で中国語を選んで。高校2年生のときかな、「漢語橋」という中国語の結構有名な世界大会に参加して。日本からの参加者は二人だけでした。

それまでは「私は日本にいるから」みたいな感じだったけど、その大会に参加したきっかけで上海に留学したんですよ。四年間、中国語専攻みたいな感じで。あっちで赤ちゃん出産して、お医者さんとの会話も全部自分でやって。

――高校の第二外国語や上海留学で上達されたんですね。

菊地紅子さん:子どもたちが言葉の勉強するときに今はすごい色んな条件も整ってるんだけど、私若いとき、子ども小さいときは、やりたくてもできなかったわけなんですよ。

中国人も少なかったし余裕はなかったんです。だから「今の皆さんはいいなあ」って思ってはいるんですよ。

――菊地さんが子育てを始めた1990年代ごろは「宮華女」の中国語教室のような場がまだ周りになかったわけですよね。裘さんも近い時期に子育てされていますが、仙台の学校には中国のルーツがある子は少なかったですか?

裘哲一さん:そのときはほとんどいなかったですね。息子は横浜で生まれたんです。中華街の近くに住んでて、中華保育園に入れたんですよ。先生はみんな中国語で環境が良かった。

裘哲一さん。上海出身。1991年に留学で来日。夫はフィンランド出身。19歳の長男は日本生まれ。

でも、子どもが3歳のときに転勤して、仙台に来たら中華学校がない。周りは日本人ばかりで、中国語を学ぶ環境を提供できなかったんです。そのときにもし「宮華女」があったらと本当に思うんだけど。

国際結婚の場合はかなり難しいです。「やりなさい!」って言っても、子どもが聞いてくれない。息子は今全然中国語を話せないです。私の親はやっぱり孫が可愛いから「顔見せて」とか言われるんだけど、でも顔見るだけなんです…。

――裘さんはフィンランド出身の方との国際結婚ですよね。息子さんのフィンランドの言葉や文化への興味はどうですか。

裘哲一さん:そうですね。国籍もフィンランドで、もっとフィンランドの文化を知りたいというのがここ数年でどんどん。

菊地紅子さん:裘さんの子どもは「私は日本人だよ」とは言わない?

菊地紅子さん(左)、裘哲一さん(中央)

裘哲一さん:言わないね。フィンランド人じゃないかな。うちは名前からローマ字で。名前は結構大きいよね。ルーツというか。

菊地紅子さん:うちは旦那の苗字で名乗って。子どもたちは「ママは中国人だけど私は日本人だからね」とかって。日本で生まれて日本で育ってというのがさ、やっぱり強いから。

――朴さんのご家庭はいかがですか?

朴仙子さん:私は少数民族なので韓国語もできて中国語もできます。

――ほかの皆さんとは母語というか第一言語が違うわけですね。

子さん:そうです。小学校、中学校、高校とも、朝鮮族の学校に行っていたので、大学行くまでは中国語がどっちかと言うと下手だったんです。

朴仙子さん。2008年に留学で来日。夫も中国出身。8歳の長女は日本生まれ。

私のときは中国語の授業以外、算数とか地理とか音楽とかは全部韓国語での授業でした。ただ、今は中国も政策が変わって。朝鮮族の学校でも韓国語は韓国語の授業だけで、そのほかの音楽とかは全部中国語になっています。

実家というかふるさとは私のような朝鮮族が半分、漢民族が半分住んでいるところで、韓国語だけで不自由しませんでした。大学でそこを出て、大学は吉林省の長春だったんですけど、タクシーに乗ったら運転手さんに「韓国の留学生ですか?」って聞かれました。

大学でクラスメートと話すうちに中国語も上手になって、卒業する年にまたタクシー乗ったら今度は「南のほうから来ましたか?」って(笑)。私は中国の標準語だけ習ってきて、方言もほとんどできないので。

――お子さんの言葉はいかがですか。

子さん:うちの親も、主人の親もみんな韓国にいるので、日本語と韓国語を教えています。子どもの言語教育は、みんな一番最初に思うのは、おじいちゃんおばあちゃんとコミュニケーションできなければならないってことなので。

子どもが2歳の頃に1年間、韓国のおじいちゃんおばあちゃんのところにいたんですよ。主人は仙台で勤めて、私は岩手で勤めて、子どもは韓国に。そのとき私、保育園の申請ができなかったので。

朴仙子さんは仙台に来る前の岩手時代にも、中国語教室などを提供するNPO「岩手県国際教育支援協会」を地域の仲間と立ち上げた。今も運営に関わり続けている。

韓国で幼稚園にも行かせたので、韓国語ペラペラになって戻ってきたんです。3歳になって「ああ幼稚園に入れる、じゃあ戻ろう」と思って日本に戻ったら、日本語が全然できなくて。友達と遊んでも全然言語が通じないので、子どもがすごいストレスを抱えていました。

小学校に行かなければならないということもあるので、家でも日本語を使い始めて。今はもう日本語ペラペラなんですけど、韓国語が抜けちゃった。二本立てがなかなか難しくて。

――日本の幼稚園や学校の環境に合わせながら二言語を同時に育てることの難しさがありそうですね。日本語や韓国語に加えて中国語も教えているんですか?

子さん:最近はみんなで一緒に日曜日に遊びに出かけるんですけど、お母さんたちみんな中国語で話すので、子どもも「私も中国語習いたい」と言い始めて。宮華女の中国語クラスはとても大事だなと思っています。

アイデンティティの問題もあります。今は日本にも中国人がいっぱいいて、子どもたちも多いんですけど、一つの小学校には一人だけだったりするんです。「一人だけ違う」ということになって、それがいじめにつながる可能性もあるし。

「私のお父さんは日本人だけど、お母さんは中国人だから、お母さんはもう学校の行事に来ないで」っていう話も聞いたことがあります。ショックを受けました。

だから「自分だけ違う」ということではなくて、「自分と同じ人たちがいっぱいいるんだよ」とみんなが感じられるようにするのが、中国語クラスでも一番大事なのかなと思っています。

朴仙子さん(右)は長春の大学時代に長春出身の王立雪さん(左)と出会い、日本でも仲良くしている。「今一緒に遊んでくれる友達がみんな朝鮮族で、私が少数民族になっちゃった」と王さん。

王立雪さん:できるだけ外では外国語しゃべらないという子どもがいます。あんまりほかの人に変な目で見られたくなくて。

私たちはみんなで一緒に遊んだりして、子どもたちはお母さんたちを見て、あるいは友達を見て、「中国語とかほかの言語ができてすごいなあ」って。「中国語習おう」って。

やっぱり言葉はコミュニケーションの現場がなければ継続できない。だから習うよりはまず集まって、子どもたちに一つの立場というか、そういう場所を作ってあげたいです。

子さん:多民族国家だと国が資源を出して継承語を教えます。でも日本では親の情熱がないと子どもの言語が上達しないです。個人の力では限りがあって、国で政策をやり直さないと。

日本で言語教育をずっとやられてきたのは、在日朝鮮人、韓国人たちが学校を立ち上げて。小学校、中学校、高校、大学まで作っています。でも日本は朝鮮学校をちゃんと認めてないですね。

「私の夫が満州族という少数民族で、ほとんど言語がなくなっています。『不・満族』(不満足)です」と中国語で語る汪小燕さん(右)。

裘哲一さん:福島での1回目の「子ども多文化フォーラム(*各地の継承語教室が集まる会)」のとき、大阪からコリアNGOセンターの金光敏さんが来てくださったんです。「民族学級」のお話を聞いたら、大阪がとても進んでるじゃないですか。継承語がね。

それで、福島県のお母さんたちと一緒に大阪に見学に行ったんです。全ての学校じゃないけど、中国語の継承語の授業もあったり、すごい力を入れていて。同じように東北でもできたらいいなとすごく思うんですけど。

――皆さんはご自身が中国から移住された一世ですが、二世、三世と言葉や文化を伝えていけるか。社会としてもサポートができるか。むしろ妨げてしまうのか。

梅琴さん:私たちは頑張ってるんやけど、私たちの次は多分、継承できないかなあ…。

梅琴さんは仙台の前に関西や四国で暮らされていたことも。

裘哲一さん:中華学校は東北に全然ないです。どこを目指すか。中国人だけで固まるとなかなか難しいかもしれないけれど、中国語のコースを開設する高校が増えたり、需要も増えてきています。横浜の中華学校は日本人の方も結構受け入れているんですよね。

――こうして同じ問題意識を共有しながら語り合える関係性はとても大切ですね。

裘哲一さん:みんなが集まると笑い声が絶えないです。ドア閉めなきゃいけないくらいね(笑)。みんな結構PTAで躓いちゃったりとか、町内会で色んなことがやり方わからなくて。梅琴さんみたいにPTAで長くできるほうが稀なんです。

梅琴さん:6年間PTAやってますので。でも正直に言って、育児をしていて自分がつらい時期があったんです。

宮華女の皆さんと一緒になって明るくなるんですよね。ストレスを発散して元気になる。同郷人からのエネルギーをもらうというか、自然に湧いてくるイメージ。

子さん:一世の人たちは日本の学校は体験していないので、システムもわからない。「PTAって何?」って。先輩のお母さんたちから色々教えてもらうことが大事です。

特に日本の男性社会の中にぽつんと来た女性たちは孤立しやすくて、近くに頼れる実家もないです。「子どもの教育のために集まろう」と言って、実際にはお母さんたちの絆が深まって。元気いっぱいになるんですね。

SNSなどで宮華女につながる宮城各地の中国出身女性は90名超にのぼる。

「教室」の風景

仙台市で中国語教室などを運営する「瀛華(インカ)中文学校」の授業にもお邪魔した。中国出身の親たちが先生となり、教科書や白板を使いながら中国語を教えている。

初級クラスと中級クラスの生徒は中国にルーツを持つ子どもたち。上級クラスに通うのは意外にも日本の一般の大人たちだ。

2007年設立で現在の生徒は40人ほど。子どもたちの親は、留学生、結婚移住、残留孤児のルーツを持つ方など多岐にわたる。

月謝は4千円で、先生たちの交通費を賄う程度。授業以外の特別な活動をする際は、先生たち自身がお金を出し合うこともあるという。

初級クラスの風景。

そんな「教室」で出会った、ある子どもとの会話。小学校低学年で、日本生まれ、日本育ちの子。

――好きな食べ物はある?

最近ハマってるのは地三鮮(ディーサンシエン)。じゃがいもと肉と茄子と、あとピーマン。私ちっちゃい頃からずっと好き。ママたちから「もうそれやめて」って言われた(笑)。

私ね、中国で食べた料理が美味しくてね。くさくて美味しい。鼻つまんで食べたよ。おじいちゃんは何もしないで食べてたけど。パクパク食べた。鼻つまんで食べたから味わかんなかったけど。味は美味しかったよ。ママとおばあちゃんは食べなかった。

――臭豆腐?ピータンかな?卵みたいな。

あれ、豆腐じゃないと思う。私卵無理だよ。アレルギーだし。ママに聞いて。

中級クラスの風景。

――教室だけじゃなくて、家でも中国語を使う?

うんとね、ママとかには言わないけど、おじいちゃんとおばあちゃんには必ず中国語で言わないといけない。日本語で言うと「中国語で言いなさい」って言われる。でも私中国語のアニメとか見るの好きだよ。

――両方の言葉がわかるのすごいね。おじいちゃんおばあちゃんと一緒に住んでるの?

うーん、寝るときは違うけど、夜とか朝ごはんとか昼ごはん食べてるときはおじいちゃんの家で。結構近いの。すぐ近く。

――(*ほかの子どもから)何分?何秒?

え、だってうちの隣だもん。3秒ぐらい(笑)。

瀛華(インカ)中文学校の先生たち。「自分の子どもも含めて、ここで生まれて、しかし中国語は話せない。中国の実家のじいちゃんばあちゃんと話も通じない。じゃあクラス作りましょうというのがきっかけでした」と校長の李建国さん(左)。

被災地の女性たち

ここまで登場した「つばさ〜日中ハーフ支援会」や「宮華女」、「瀛華(インカ)中文学校」など、東北各地の継承語教室同士をつなげ、サポートしてきた「福島移住女性ネットワーク(EIWAN)」代表の佐藤信行さんにもお話を聞いた。

――佐藤さんたちが2012年にEIWANを立ち上げた経緯を伺えたらと思います。ご自身の歩みについても聞かせてください。

僕自身は仙台生まれで、仙台の高校を出て大学に行ったのね。横浜の大学で、中華学校、朝鮮学校、韓国学校を卒業した学友が結構いたんだよ。そのときから在日外国人との付き合いが始まった。

「季刊三千里」という在日朝鮮人の作家とか歴史家が作ってる雑誌があったんだけど、その編集部に創刊準備の1974年から終刊まで14年間勤めた。

佐藤信行さん。EIWAN代表。ほかに移住連(移住者と連帯する全国ネットワーク)理事、在日韓国人問題研究所(RAIK)所長、外キ協(外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会)事務局次長など。宮城県仙台市出身。

――在日韓国問題研究所(RAIK)に入る前のことですか。

RAIKは在日大韓基督教会の附属の研究所で、1974年にアメリカの教会の支援もあってできたのね。アメリカで公民権運動が闘われている中で、日本のマイノリティである在日韓国・朝鮮人の人権活動をやる組織が必要だろうということで。

僕自身は1988年に入った。それまでRAIKを担っていた在日二世の裵重度さんという青年がその年にできた川崎市の「ふれあい館」を運営することになって。ショートリリーフを僕がやるということだったんだけど、ロングリリーフになった(笑)。

「外キ協」ができたのもその頃(1987年)。1980年代に在日韓国・朝鮮人や在日中国人が指紋押捺拒否をしたんだけど、北海道から九州のキリスト者が指紋拒否者を支援する動きがあって、欧米からの宣教師も連帯した。ほいで1999年の外登法改正で指紋制度が全廃する。

――日本で暮らす外国人の権利のための活動を長くされてきた。

1995年の阪神淡路大震災のときは東京からお金とボランティアを送れば良かった。関西とか神戸に外国人の人権に関する活動をしてきた教会関係の機関があったから。でも東北にはほとんどないわけだよ。

だから、2011年に東日本大震災が起きたときに、東京から僕と在日大韓教会の牧師と日本キリスト教会の牧師と3人で仙台に行って、外国人被災者の支援をやっていこうとなったのね。韓国の教会から支援金や物資もどんどん送られてきていて。

仙台なり都市周辺の在日韓国・朝鮮人は、総連と民団がそれぞれ支援していたから、自分たちはそれ以外の外国人の支援をと考えたんだけど、最初はどこに外国人が住んでいるかすらわからなかった。

仙台に「外国人被災者支援プロジェクト」の具体的な拠点ができたのが9月かな。東北大学の李善姫さんとか、東北学院大学の郭基煥さんに出会って、色々相談しながらやり始めたんだよね。

――李善姫さんにも結婚移住女性の研究や支援について伺いました

国際結婚移住者が1980年代から東北の各村、各町に定住するようになったことは知っていた。

統計を見ても夫日本、妻外国という国際結婚がばーっと増えてるんだよね。だけど、実際に出会うことはなかなかできなかった。小さな町とか村に点在してるから。

それで、2012年に石巻市役所に「外国人被災者の調査がしたい」という話をした。外国人の住所と名前を把握してるのは市役所だからね。そしたら、やりましょうということになって。

李善姫さんや郭基煥さんと協議しながら、日本語、英語、タガログ語、韓国語、中国語、タイ語のアンケート用紙を作った。それを石巻市から20歳以上の外国人全員に市役所の封筒で送ってくれた。2013年には気仙沼市でもアンケート調査ができた。

石巻市と気仙沼市での調査結果などをまとめた報告書。回答者のうち女性の割合が顕著に高く、石巻(92名回答)では85%、気仙沼(85名回答)では92%を占める。

例えば、当時は「高台に避難してください」と言っていたけど、「高台」という言葉を知らない人が石巻で43%、気仙沼で33%もいることがわかった。それ以降は「やさしい日本語」への言い換えが意識されて、「高いところに逃げてください」とかになっていく。

――貴重な調査ですね。

今住んでいる石巻や気仙沼に対する愛着心と、出身国に対する愛着心を聞いたら、それぞれすごく高かった。今後もここに住みたいという気持ちと、出身国への誇りを同時に持つというかね。

それから「子どもにはあなたの出身国のことを教えることが望ましいと考えている」かどうかを聞いたら、8割以上の人がイエスだった。

子どもの多くは日本国籍なんだよ。お父さんが日本人だから。その子どもたちに対して、中国や韓国やフィリピン出身のお母さんが「自分の母語なり母文化を継承したい」という思いが8割以上出てきた。

東京とか大阪に住んでれば朝鮮学校、韓国学校、中華学校なりがある。大阪には民族学級があったり。東北にはそういうものがない。石巻とか気仙沼の身近にはね。でも、移住女性にとっては、そのことが願いとしてすごくあるんだということがわかった。

――その一方で「家族の中であなたの国の言葉が普段から使われている」や「子どもはあなたの出身国の文化や歴史についてよく知っている」への回答を見ると、イエスが2〜4割ぐらいですね。希望と現実にギャップがありそうです。

そうだね。アンケート用紙の最後に「支援を求める人は名前と連絡先を書いてください」と書いておいたのね。

それで新幹線で毎週東京から仙台に行って、連絡先を書いてきた人たちに会っていった。石巻市役所で、中国語、韓国語、タガログ語の通訳ができる人と一緒にね。

ある中国の女性は市役所に来れないというので、山奥まで裘哲一さんと会いに行ったな。バスが二日にいっぺんの限界集落にぽつんと住んでいた。

こういう出会いの中で「外国人のことをいくらかは知っている」という自分の認識が本当に浅はかだったなという思いがした。

僕の両親は蔵王のふもとの村の出身で、東北の農村についての体感はあった。だから、移住女性が農村や漁村に結婚して定住していくことの困難さについても、話を聞いていく中で頷ける部分があったんだよね。

長男と結婚して彼の両親と暮らす。夫は給料を自分の母親に渡す。子どもがプール教室とかピアノを習いたいときは、夫じゃなくて母親のほうに言わないといけないとかね。

――アンケートだけでなく直接会ってお話を聞けたことは大きいですね。

あるフィリピンの女性は最初はタガログ語で話し始めたんだけど、「夫のお母さんがひどいことを言うんだ」といった肝心な話に入るところから途端にたどたどしい日本語になった。

「今話したことをタガログ語で話してください」と言ってもすぐ日本語に戻ってしまう。それを2時間ぐらい繰り返して、彼女も通訳もみんな疲れ果てた。「もう一度会いましょう」と言って別れたんだけど、彼女との連絡はつかなくなってしまった。

――話しやすいはずのタガログ語のほうがむしろ出てこなかったわけですか。

日本で暮らす以上は日本語で話さなきゃいかんという強迫観念の中で生きざるをえなかったのかもしれない。でもそうしたくてもできない。自分の思いを日本語で十分に表現できないまま来ている。

子どもを出産して、だんだん言葉を覚え始めるときに、お母さんはやっぱり母語で話しかけるわけだよ。中国語、韓国語、タガログ語とかでね。でも「ここは日本なんだから日本語を教えなきゃだめだ」とか言われるわけじゃない。

そういうところから来てるんだろうな。日常の日本社会で暮らす重圧というのは。

――「生活の中で母語を使えない」という困難が震災後の相談で見えてきた。

福島の中国人女性たちのグループを見ていても思うんだけど、月に2回子どもたちを中国語の教室に連れてきて、お母さんたちはお母さんたちで、中国語でわーっと盛り上がってるんだよね。

そういう同胞と母語で話せる場がさっきのフィリピンの女性にもあればね。もっと違う生き方ができたかもしれない。「うちの姑がこんなこと言うんだ」とか、お互いに言い合えたりさ。

――2011年から石巻、気仙沼など宮城中心に活動をされて、そこから福島を中心とするEIWANの活動に移行されたという流れでしょうか。

そうそう。2013年までは宮城県を中心に「外国人被災者支援プロジェクト」の活動をやっていて。並行して2012年の7月に福島でEIWANを結成したんだよね。

2011年、12年にフィリピンの女性たちが福島市や白河市で自助組織を作ったのね。彼女たちに会ってみたら「夫の仕事が震災で非常に困難になった、自分たちで働きたい」と言うんだよ。それを支援しようということでEIWANが始まった。

「日本語教室で漢字が出てくると中国人がどんどん上達してフィリピン人が取り残されてしまう。だからフィリピン人対象の教室をやってほしい」という話で、福島市で始めたんだよね。それが白河市にも広がった。白河には日本語教室自体がなかったから。

最初はフィリピンの女性だけだったんだけど、だんだん多国籍になっていった。技能実習生が徹夜で働いて授業に来るとか、介護施設で働いてるフィリピン人とか、福島大に来てる留学生のパートナーとかね。

福島で震災前から活動していた「蓬莱日本語教室」に手伝ってもらって、子ども日本語教室も始めた。多くは日本語を母語としない子どもたちだよね。両親と共に日本に来ていて。

あるいは、震災後に子どもだけフィリピンのお母さんの実家に避難させて、夫婦は福島で働いて、子どもが小学校に上がるときに日本に呼び寄せたけど日本語は忘れている、とかね。

猪苗代湖のそばで一泊二日のキッズキャンプもやったな。二本松、郡山、会津若松、いわきとか、福島のほかの子ども教室と一緒に集まってさ。

――「大人向けの日本語教室」から「子どもたちの日本語教室」、そして「継承語教室」のサポートへと活動が広がっていったんですね。

継承語教室については、石巻と気仙沼の調査で出てきた親たちの願いがあったし、震災後に中国の女性たちが須賀川市、郡山市、いわき市で次々と教室を作っていた。

その福島の3教室とEIWANから宮城、山形、新潟の教室にも呼びかけて、2015年から「子ども多文化フォーラム」という合同学芸会をやってきたわけね。バスとか新幹線で郡山まで来てもらって。

それぞれの教室は成り立ちもやり方も違って。李善姫さんが関わってる仙台の「ハングル学校みやぎ」は震災前からやっている。「瀛華(インカ)中文学校」も震災前から。

裘哲一さんの「宮城華僑華人女性聯誼会キッズサロン」とか、「山形ムグンファ学校」は震災後からだね。新潟の「上越中文学校」も、東北でこういう動きがあるということで新しくできた。

山形市の「IVY子ども中国語教室」や酒田市の「日本国際唐文学院」も過去にEIWANのイベントに参加した。

――様々な継承語教室に関わる中で見えてきた課題もありますか。

やっぱり継続することがすごく難しいよね。仙台のように留学生とか新しい人がどんどん入ってくるところはなんとかやれるんだけど、そうじゃない地域はすごい大変。震災後に小学生に中国語を教え始めて、中学、高校に入るとクラブ活動とかで来れなくなったり。

――東北への結婚移住自体が減ったことによる継続の難しさという話も聞きました。こうした活動や集まりに父親が参加することもありますか。

お父さんはあまり来ないね。EIWANに関わる女性の夫は比較的理解がある人たちが多くて、一度「親父会」をやろうと思ったこともあったんだけど、なかなかうまくいかなかった。みんな仕事で忙しかったりね。

――東北という場所でそれぞれが草の根で立ち上げた教室を続けてきたこと、EIWANとしてサポートを続けてきたこと、簡単ではなかったと思います。

東北のある大学の名誉教授から「佐藤さん、福島で多文化共生は無理ですよ」って言われたことがあったね。「ええ…」と思ったけど、まあそういう認識を持っている人はいるわけだよ。

でも、このまま行ったら今まで移住女性たちが頑張ってきたことがまた埋もれてしまうじゃない。だからもう意地でもさ、行政とか地域社会にアピールしていかないとね。

佐藤さんが結成10年の報告書に記したエッセイから。「初期の中国語教室の子どもたちはいま高校、大学へと進むと共に、反抗期真っ盛りで、移住女性のお母さんたちを大いに悩ませているらしい。その光景を想像しながら、今春高校・大学入学を果たした『継承語教室の卒業生』8人に図書券を贈った。『じぃさんは、皆さんのお母さんたちと一緒に、あと3年か5年は頑張るから、君たちも高校、大学で自分の道を切り拓いていってほしい』と」

言葉を継承する意味

この記事の最後に、大阪大学の榎井縁さんに伺ったお話を紹介したい。

――移民の子どもたちに母語を継承することにはどんな意味があるのでしょうか。

トロント大学のジム・カミンズという移民の母語研究の第一人者がいます。「継承語を大切にしたほうが第二言語も伸びる」ということを明らかにしたんですね。

EIWAN「10年のつどい」で講演する榎井さん。

――移民の親から受け継いだ母語(第一言語)を放置したり抑圧したりせず、むしろしっかり伸ばしたほうが、移住先の社会の言葉(第二言語)も伸びやすいということですか。

そうなんです。特に小さい子どもに読み書きを含めて母語を教えることはとても大事なんです。それをしないと、生活言語は流暢に話せても、実は学習言語の能力が育っていないという子が出てきます。

――榎井さん自身はいつ頃からそうした問題意識を持っていたんですか?

大阪市教にいた頃なので、90年代半ばには意識していたと思います。

小学生であっという間に大阪弁が私より上手になる子たちが、授業になると落ち着かない(*榎井さんは横浜出身)。そういう子を当時の先生たちは「LD(学習障害)児じゃないか」と言ったりしていましたね。

――日常会話が一見流暢でも、学習に必要な力も含めてその言語が十分に育っているとは限らない。障害に見えてもそうではない場合があるということですね。

当時カミンズの研究を読んで「これじゃない?」とすごく思った覚えがありますね。今でも「二言語の間で成長する子ども」に対して、母語をちゃんと保障することの大切さはあまり理解されていません。

「瀛華(インカ)中文学校」に通う親子。

日本語が第二言語として後から入ってきたときにも、第一言語のベースがしっかりしていないと伸びづらいわけです。だから母語が大事なんです。

――母語を育て、言葉を継承することの意味が改めてよくわかりました。親や祖父母と会話できること、ルーツを大切にすることなどに加えて、学ぶ力それ自体の発達を支え、第二言語としての日本語が伸びる基盤にもなる。

子どもが一番最初に語りかけてもらった言葉というのは親の母語なんですよね。夜にお話したり、絵本を読んだりするじゃないですか。その時間がやっぱりあるわけです。

その時間を無かったものにするのか。それともそこを根っこにして、自分の言葉になっていくことを保障するのか。日本社会が今問われていることだと思います。

取材後記

記事を書いている最中、以前この「ニッポン複雑紀行」で訪れた群馬県大泉町のブラジル人学校「日伯学園」についての報道を読んだ。財政難で一時的に休校されたという。

2019年につくった記事を読み返すと、自身もブラジルへの移民一世である高野祥子代表のこんな言葉が目に止まった。榎井さんとほぼ同じ話をされている。

「公立学校をドロップアウトして日伯学園に来る生徒には、日本語もポルトガル語もおぼつかない子どもがいます。母語が確立しないと思考力が伸びませんので、まずはポルトガル語を徹底的に鍛えます。その上で、日本語教育に力を入れています」

高野さんは当時から学園の課題が「財政面」にあるとも語っていた。そこには、東北で出会った親たちの言葉が折り重なって見える。

日本では「親の情熱」なくして母語を伝えることが難しい。移住女性たちのそうした認識は、過去から現在に至る継承語への公的支援の乏しさを、そのまま映し出しているだろう。

ここまで「東京や大阪などに比べて東北には外国人学校などがほぼ存在しない」という視点をたびたび強調してきた。その点はやはり重要であり続ける。

だが同時に、現時点での地域間の格差や違いを見るだけでなく、日本社会がその全体として「日本語以外」を歴史的に軽視し、時に抑圧してきた問題としても、捉えなければならない。

宮華女の女性たちの語りからもわかるように、移民の子どもが「母語を学びたい」と思うかどうかには個人差がある。

もちろん、その子ども自身の気持ちを尊重することは最も重要だ。だがそう言って終わりにせず、「個人差」や「本人の考え」を取り巻く「社会」のことも、直視していきたい。

この社会のあり方がどう違えばどう変わっただろう。子どもたちが複数言語とともに暮らし、学び、育っていくことを違和感なく受容できるための環境は、どうしてそのときなかったのだろうか。

「なんでみんなと違う中国語を勉強しなきゃいけないの?」

「お母さんはもう学校の行事に来ないで」

こうした言葉の背景をできるだけ想像したい。具体的な場面を。具体的な気持ちを。そして、もう少し大きな仕組みや、つかみどころのない「主流」や「普通」の力を。

私たちは誰もが「最初の言葉」で語りかけられた。何らかの言語の一部でありながら、大小様々な地域や集団の歴史ともつながり、個々の口ぐせや声色からも切り離せない、そんな一つひとつが、かけがえのない言葉。

その本質にはルーツによる違いなどないはずだ。そうだとすれば、あるのは、少数者にだけ言葉の継承を諦めさせる社会にとどまるか、それとも誰もが母語を大切にできる社会へと変わっていくか、その選択だけなのだろうと思う。

CREDIT望月優大(取材・執筆)、柴田大輔(取材・写真)、伏見和子(取材)

#移住女性の声を聴く というテーマでお話を伺ってきました。ほかの記事はこちらから。 
・誰でも自由に声が出せる、苦しいときには頼れるつながりを求めて(裘哲一さん)東北の男性と結婚した外国人女性たちの経験。「不可視化」の理由と託された言葉の数々。お見合い結婚で女川に。ハルピン出身の杜華さん、夫の文男さんと振り返る20年間の道のり。
「ニッポン複雑紀行」の活動は毎回の記事を読んでくださる皆さま、そして難民支援協会への寄付によって支えられています。SNSなどで記事を広めてくださることも大きな励みになります。これからも関心をお寄せください。

TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

1985年生まれ。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長。著書『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)。代表を務める株式会社コモンセンスでは非営利団体等への支援にも携わっている。@hirokim21