2017.12.14
民主化の闘士からレストランの店長へ。ミャンマー街の重鎮が語る「リトルヤンゴン」30年間の記憶
高田馬場の「もう一つの顔」
高田馬場駅にやってきた。JR山手線の駅の一つ、早稲田大学がある学生街だ。
でも、この街にはもう一つ別の顔がある。高田馬場は「ミャンマー人の集住地域」なのだ。
事実、高田馬場には東南アジアのミャンマーにルーツを持つ人々が数多く暮らしている。どれくらいかと言うとミャンマー料理屋や雑貨屋が合計で20軒を超えるほど。
しかもミャンマーは複雑な多民族国家であるため、ただ一つの「ミャンマー料理屋」が20軒あるということでもないのがまた面白い。
ビルマ民族の人が経営する「ビルマ料理屋」、カレン民族の人が経営する「カレン料理屋」といったように、言語や宗教的ルーツを異にする個性豊かな店々が高田馬場駅周辺のさまざまな場所に遍在している。
祖国の多民族性は異国のエスニックタウンにもそのまま引き継がれているというわけだ。
この地にミャンマー人たちが集まり始めてすでに30年近い月日が経過している。そして、いつしか人々はこの街を「リトルヤンゴン」と呼ぶようになった。ヤンゴンというのは、ミャンマーのかつての首都の名前である。
この街の歴史を知り尽くす重鎮に、話を聴くことができた。
目次
- 本文|リトルヤンゴンの歴史(インタビュー)
- コラム①|リトルヤンゴン・民族料理探訪(シャン、モン、ビルマ)
- コラム②|2005年、ミャンマー
※本文の後にコラムを2つ配置するという不思議な構成にしました。その不思議さも含めて味わってみてください。
起点になった8888民主化運動
ミャンマーの人々が日本に来るようになったのには大きなきっかけがある。
1988年の「8888民主化運動」だ。
アウンサンスーチー氏が一躍有名になるきっかけにもなったこの民主化運動だったが、当時の軍を背景とした独裁政治に対して反対の声を挙げた人々は苛烈な弾圧を受けた。
民主化運動は挫折したのである。
この出来事が、多くのミャンマー人が「難民」として日本にやってくることになった直接の理由となった。自分の国にいられなくなったたくさんの人々が、バブル真盛りの日本にやってきたのだ。
それからすでに30年近くの時間が経過している。
今回お話を伺うレストラン「ルビー」店長のチョーチョーソーさんも、8888民主化運動に参加したことをきっかけに難民として日本にやってこざるを得なかった張本人。「リトルヤンゴン」の誕生から現在にいたるまでの歴史をよく知る街の重鎮である。
今日は「ニッポン複雑紀行」編集部一同、彼の話を伺いにルビーまでやってきた。ビルマカレーやお茶の葉サラダといった定番料理を食べ終わった午後9時ごろ、チョーチョーソーさんはおもむろに近づいてきて私たちのテーブルに腰をかける。
数分間のよもやま話を経て、彼の記憶はリトルヤンゴンの前史、西武線中井駅周辺の時代へと遡った。
リトルヤンゴン前史|中井駅周辺(90年代初頭)
ーーチョーチョーソーさんよろしくお願いします。ビルマカレーとても美味しかったです。
ありがとう。
今日はリトルヤンゴンの歴史を話せばいいかな。
実は高田馬場に来る前にミャンマー人たちは西武線の中井駅の周りに集まっていたんだよ。中井駅と東西線の間のあたりに集まって暮らしていた。
ーー高田馬場の前に中井時代があったんですね。
中井駅周辺にミャンマー人が増え始めたのは90-91年ごろだと思う。
中井駅の近くに写真屋があってね。そのドアにミャンマーの写真が飾ってあったんだ。たぶんその店の方がミャンマーで写真を撮ってきたんだと思う。結構年をとっていた人だったな。
彼がミャンマーとどういうつながりがあったかはわからないけれど、中井駅の周りでだんだんミャンマー人のコミュニティが大きくなっていった。レストランや居酒屋、美容室なんかも少しずつでき始めた。
中井には風呂なしの古い安いアパートがたくさんあったんだ。不動産屋に相談して借りたんだね。
中井にはミャンマー人のためのお寺もあった。アパートを借りてミャンマーの人と日本人のお坊さんとでお寺をやっていたんだよ。
ーー家を借りるのも今よりずっと難しかったでしょうね。
うんそうだね。
日本に来たばかりの頃は難民申請のことなんて誰もわからなかったから、オーバーステイの人がほとんどだった。90年代前半のころのことだよ。だから特に難しかった。
ビザを持っている人が家を借りたり、日本人と結婚した人が保証人に入ってくれたり。そんな風にしてなんとかやっていたんだ。
高田馬場への移行(96年ごろ)
ーー高田馬場に移ってきたのはいつ頃ですか。
96年くらいかな。中井から色々なところに人が移っていった。
みんな日本に来たばかりの頃はこの国に誰も知り合いがいない状態。でも、日本に住んでいる期間が少しずつ長くなってくると色々なこともわかってくる。
その中で立地という意味でもう少し良いところ、便利なところに移ろうという流れが出てきた。高田馬場は西武線もJRも地下鉄もあるしとても便利な場所で。それでたくさんの人が移っていったね。
高田馬場で最初にできたミャンマー系のお店は駅前の茶色いビルの8階にあった「ゴールデンイーグル」という雑貨屋じゃないかな。96年のことで。それから少しずつミャンマー人が高田馬場に増えていったんだよ。
ーーチョーチョーソーさん自身はいつ高田馬場に移ったんですか。
実は僕自身は中井には住んだことがないんだ。よく通ってはいたんだけれどね。
自分自身が高田馬場に移ったのはこのレストラン(ルビー)をつくったころからだから2002年だね。
800人が暮らし、Facebookでつながっている
ーー高田馬場にはどれくらいのミャンマー人が住んでいるんですか。
高田馬場の周り、戸塚地域に800人くらいじゃないかな。
高田馬場に住んでいる人がみんな高田馬場で働いているわけじゃない。働くのは色々なところで、仕事の内容はレストランで働いている人が多い。ミャンマーレストランじゃなくて日本の飲食店という意味ね。
800人のなかにもいくつものコミュニティがあって、それぞれのコミュニティでつながっているんだ。それぞれの情報は互いにみんな知っているけどね。いまはFacebookもあるし、店で情報交換したり、噂とかもあるしね。
名前はわからない人も多いけど、顔を見たらミャンマー人かどうかはすぐにわかるよ。
ーーリトルヤンゴンに新しく来たミャンマー人からの相談があったりしますか?
うんあるよ。難民申請や役所のこと、仕事のこととかが多いね。
仕事については、Facebookに「今どんな仕事があるか」を共有するグループがある。そこでみんな情報を共有して、みんなそこを見ているんだ。
毎日「どこどこで1時間いくらの仕事がある」という情報が共有される。そこに電話番号が書いてあるから直接電話をかけたり、「Facebookのメッセンジャーで連絡してください」と書いてあることもあるんだよ。
増える外国人留学生
ーーFacebookすごいですね・・!
日本人も個人的に仲の良い人は色々なところにいるよ。最近はベトナム人や中国人の留学生が増えているから一緒にお昼を食べたりしながら話をしたり相談に乗ったりすることもある。ミャンマー人には自分より相手を優先する習慣があるから。お客さんが好きなんだね。
留学生は増えている。ミャンマー人の留学生も増えたよ。日本語学校に行っている人が多いね。
日本語学校はこの周りにもあるけれど、それ以外にも色々なところにあるよ。日本語学校にミャンマー人スタッフがいるところだってあるくらいだ。
ーー最近のミャンマー人留学生も高田馬場に住んでいる人が多いですか。
高田馬場も多いけれど、日本語学校の近くに住む人が多いかな。
彼らは最初の1年は日本語学校に行く。そのあとはIT、ビジネス、マネジメントなどの専門学校に行くことが多いね。日本に2〜4年くらい住んでミャンマーに帰っていく。
高田馬場のミャンマー人はいまも増えているよ。昔は「難民」が多かったけど今は「留学生」が増えている。
ミャンマーのお店は高田馬場に全部で20軒くらいある。2000年から2005年くらいの間に一番増えたね。ルビーも2002年にできた。「リトルヤンゴン」と呼ばれ始めたのは2007年から2008年くらいからかな。
変わるライフスタイル
ーーこれまでルビーの経営で大変だった時期はありますか。
あるよー(笑)。
最初の2年間はとても大変だった。
それと、実は今も少し大変なんだ。
お客さんが少なくなってきている。日本人のお客さんは少し増えているんだけど。結果として、今はミャンマー人と日本人が半々くらいの割合かな。
ーーミャンマー人のお客さんが減っているということですか。
うん。
2つ理由がある。1つめは最近増えているミャンマー人の留学生たちがあまりお金を持っていないということ。
そしてもう1つの理由。日本に長く住んでいるミャンマー人たちのなかで、自分の家でご飯をつくるという人たちが増えているんだよ。
どういうことか。最初は自分のように難民として単身で来る人が多かった。でも、日本で結婚したり、あとから家族を日本に呼び寄せたり、そういう場合もあるからね。
家族がミャンマーから来たら、家で料理をつくって一緒に食べるよね。当たり前のこと。それで、外食をする機会が減っているんだ。時間がたつごとに生活自体が変わってきているんだよ。
ーーお客さんを求めて高田馬場以外の街に出店しないんですか。
しないね。だってやっぱりターゲットがミャンマー人だから。高田馬場のコミュニティがお客さん。800人も住んでいるからね。住んでいるミャンマー人の民族はカチン、シャン、アラカン(ラカイン)が多い。実はビルマ民族が一番多いというわけでもないんだ。
もう1つは高田馬場が便利だから。ミャンマーの色々なお店が全部集まっているからね。たくさんお店があるから、リトルヤンゴンの地図をつくりたいという話もあるんだ。案内所もあったらいいし、駅前に「リトルヤンゴン」という大きな看板も出したいな(笑)。
ーーそれはいいですね!今回はお店を3つ回って満腹になってしまったので、また遊びにきます。
取材をふりかえって
高田馬場周辺にミャンマーレストランが集まっていることはなんとなく知っていて、ミャンマー料理のレストランにも何度か足を運んだことがあった。チョーチョーソーさんの話を聴いて、リトルヤンゴンの歴史と現在地について少しだけ理解することができた。
1988年の民主化運動からはすでに30年近くの月日がたっている。当たり前のこととして、チョーチョーソーさんのように難民として日本に逃れてきたミャンマー人たちのコミュニティも、現在にまでいたる重厚な歴史を蓄積している。
忘れてはならないことだが、彼らが長いあいだ日本で暮らしているのにはもちろん理由がある。
1988年の民主化運動のあと、ミャンマーは軍政に移行した。ミャンマーを逃れて日本に来た人々にとって、長い間、祖国に帰るという選択肢は存在しなかったのである。
結果として、彼らの多くは難民認定など様々なプロセスを乗り越えて日本に何とか定住する道を選んだ。そして、家族を呼び寄せるといった一つ一つの決断を通じて、この日本社会へと日常生活ごと根付いていった。
その結果として今のリトルヤンゴンという街があり、そこに暮らす人々の生活がある。
リトルヤンゴンの歴史はこうしたミャンマー人たち一人一人による定住深化のプロセスから切っても切り離せない。
多くのレストランや雑貨店は、ビジネスとコミュニティ(相互扶助)の中間的な存在として、同じ背景をもつ少数者たちが互いに生き延び合っていくよすがとなってきた。
単に食べ物を提供するだけでなく、人々はそこで住まいや労働といった生活基盤に直結する情報を交わし合い、様々な苦難を乗り越えるための精神的なつながりを維持してきたのである。
チョーチョーソーさんがつくった「ルビー」という場所も、そうした実践の一つとして意識することによって、それまで気づかなかった迫力を帯びて見えてくる
コミュニティが30年続くということは、家族ができ、子どもが生まれるということだ。移民が異国に「定住」するというのは詰まるところそういうことである。「いつか戻る」人もいれば、「ずっと暮らす」人もいる。その当たり前をどれだけ想像できるか、そのことが問われているように思う。
チョーチョーソーさんが話していたように、時代はどんどん変わっていく。ミャンマーでは2015年11月の総選挙を経て「事実上のアウンサンスーチー政権」が誕生した。ミャンマーから日本に訪れる留学生の数は増加し、同時に、30年近く日本で暮らす古参の人々のライフスタイルは大きく変化している。
「リトルヤンゴンのミャンマー人たち」の内部においてさえ、ものすごいスピードで多様化が進んでいるのだ。
リトルヤンゴンは「次のフェーズ」へと入っていく。
こんなに面白い場所が、すぐ近くにある。
【コラム①】リトルヤンゴン・民族料理探訪(シャン、モン、ビルマ)
今回はシャン民族、モン民族、ビルマ民族のレストランを回り、それぞれの味を楽しんでみた。同じミャンマー料理でも違いがあって面白い。飽きない。
ノング・インレイ(シャン料理)
「孤独のグルメ」にも登場した有名店。ミャンマー東部にルーツを持つシャン民族の料理を食べることができる。
どの料理も美味しいが、このお店に来たらぜひ名物の「昆虫料理」を食べてみてほしい。
コオロギを食べてみたのだが見た目を気にしなければ意外と食べることができた。シャンヌードルも忘れずに。
ヤマニャ・アジア・キッチン(モン料理)
モン民族の料理が食べられる。
モン民族が多く住むモン州はミャンマー南部にあり地理的にはタイに近い。
訪れたときはミャンマー人のお客さんが多かった。
選んだ料理がたまたまそうだったのかもしれないが全体的にスパイシーで辛口な味付けだった。とくにトムヤムクンに似た味付けの鶏肉のスープが辛くて辛くてひーひー言いながら食べた。やはりタイとの地理的な近さを感じさせる。味は間違いなし。
ルビー(ビルマ料理)
今回お話を聞かせていただいたチョーチョーソーさんのお店。
ミャンマーでもっとも人口が多いビルマ民族の料理が食べられる。
リトルヤンゴンに興味を持ったら入門編としてまずはこのお店からスタートしてみると良い。ぜひビルマカレーを食べてみてほしい。(インタビュー部分にも料理写真あり)
最後に短いコラムをもう一つ。
【コラム②】2005年、ミャンマー
2005年の夏。
10代の貧乏学生だった頃の話だ。長い長い夏休みを前にして「どこでもいいから外国に行きたい」と思っていた。ただ、お金がなかった。
インターネットを眺めていた私は、内閣府が「若者を色々な国に送り込むプログラム」の参加者を募集していることを知った。結果的に、このプログラムが私にとってミャンマーとの縁が生まれるきっかけとなった。
プログラムに参加するほかの若者たちが、ヨルダンやドミニカ共和国、ハンガリーといった国に割り振られるなか、私が割り振られた国がミャンマーだったからである。
ミャンマー政府から日本政府の代表として迎え入れられた10名ほどの若者たち。政府の要人を含む多くの人々から歓待を受け、丸々1ヶ月かけてミャンマーのさまざまな都市を回った。
当時の首都だったヤンゴンだけでなく、北部のマンダレーやバガン、インレー湖や東部のタウンジーまで。現地の方の家に泊めてもらったり、学校や奥地の村を回ったりと貴重な経験をさせてもらった。
ただ、私たちの置かれていた立場はとても微妙だった。
当時はまだ民主化が進む前で、「言っていいことと悪いこと」の区別が厳然と存在していた。
アウンサンスーチー氏は自宅に軟禁されていた。現地の日本語通訳者は彼女の名前を直接話すことを避け、隠語を使って「おばさん」と呼んだ。バスでヤンゴン市内を移動中、「この近くの湖のそばに”おばさん”が住んでいますよ」とこっそり教えてくれるといった具合である。
私たちは日本とミャンマーの「政府」間交流でかの国を訪れていた。そして、そのミャンマー政府こそが、アウンサンスーチー氏を軟禁していた。
自分たちの年齢や実績に不相応なまでの厚遇の背景には、日本とミャンマーという二つの国家間に存在するオフィシャルな関係性があった。ホテルの部屋の外にはトランシーバーを持ったミャンマー人たちが一日中配備されていた。護衛なのか監視なのか。その緊張感とやるせなさを、今になっても思い出すことがある。
その後、ミャンマーの政治状況は大きな変化を通過する。
2010年にアウンサンスーチー氏の自宅軟禁が解除され、2011年には民政移管が実現することになったのだ。圧倒的な変化は、2016年、アウンサンスーチー氏自身が事実上の最高権力者である「国家顧問」という新設ポストに就くまでに至った。
高田馬場・リトルヤンゴンの歴史の背後で、祖国であるミャンマー自身も大きな変化を遂げていた。
ただし、現在も軍は依然として大きな権力を維持している。この国のアキレス腱とも言える幾多の少数民族との困難な関係についても、未だ解決を見ていない。
参考文献
- 根本敬『物語 ビルマの歴史』中公新書、2015年
- 永井浩、田辺寿夫、根本敬(編著)『「アウンサンスーチー政権」のミャンマー』明石書店、2016年