2023.12.05
【書籍化】ニッポン複雑紀行から初の書籍化となる『密航のち洗濯』を出版します
今日は大切なお知らせがあります。
2017年に立ち上げたウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』から初の書籍化となる『密航のち洗濯——ときどき作家』を出版します。
在日朝鮮人文学史などを専門とする研究者の宋恵媛(ソン へウォン)さんと私(望月優大、もちづき ひろき)が共同で長時間のインタビューや各種資料の調査に取り組み、写真家の田川基成(たがわ もとなり)さんと一緒に本書の主題にゆかりのある様々な場所(韓国=蔚山・釜山、日本=山口・東京など)をめぐりました。
その結果、この本ができました。
1946年夏。朝鮮から日本へ、男は「密航」で海を渡った。日本人から朝鮮人へ、女は裕福な家を捨てて男と結婚した。貧しい二人はやがて洗濯屋をはじめる。
蔚山、釜山、山口、東京——洗濯屋の「その後」を知る子どもたちへのインタビューと、わずかに残された文書群を手がかりに、100年を超える家族の歴史をたどる。
今後、書籍の出版(柏書房、2024年1月刊)と連動しながら、このウェブマガジン上でも記事を公開していく予定です。
まずはプロローグの冒頭に書いた文章をお読みください。
『密航のち洗濯』——プロローグ
1957年春。
東京都目黒区の外れに「徳永ランドリー」が開店した。
その「洗濯屋」の店主には別の顔があった。彼は昼の仕事を終えたあと、深夜に日本語で書く無名の「作家」でもあった。ほとんど読まれなかった彼の物語には、朝鮮から日本への「密航」の様子が詳しく描かれている。店主はおそらくかつて「密航者」だった。
1946年夏。
日本敗戦の翌年、山口県北部の仙崎湾には大量の朝鮮人を乗せた米軍船が係留していた。
米ソの分割占領下で混乱する朝鮮半島を逃れ、小さな船で(再)渡日した人々の間では、コレラの感染が拡大する。GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の指示のもと、山口県沿岸部の警察や住民は「密航船」の警戒にあたった。各地で上陸する朝鮮人たちを捕らえ、急ごしらえの施設に閉じ込め、あるいは巨大な船内に何週間も隔離した。
誰かを異物と名指し、見つけ出し、外部へと放逐するまでの一連のプロセス。現在も続く過酷な入管収容、強制送還の始源的な光景が、そこに出現していた。悪名高い大村収容所(大村入国者収容所、長崎県大村市)が創設される、4年も前の話だ。
当時、こうした経験を通過した人々は決して少なくない。朝鮮と日本はそれぞれ占領下にあり、その間の海を合法的に渡る術はほぼなかったからだ。1946年に警察が検挙したとする「密入国者」の数が2万人弱。加えて、検挙されなかった人々も当然存在する 。
いずれにしても、かれらの多くはその経験を語らなかった。語れないほうが普通だろう。書けないことが普通だと思う。だが、書いた人がいなかったわけではない。
(以下続く)
この本ができるまで
この企画の始点は1年ほど前に遡ります。
本書で主な登場人物となる無名の在日朝鮮人作家・尹紫遠(ユン ジャウォン、1911〜64年)による日記を、宋恵媛さん(=本書『密航のち洗濯』の共著者)が京都の琥珀書房から出版したことがきっかけでした。
その日記は、尹紫遠本人の死後、妻の大津登志子(おおつ としこ、1924〜2014年)、そして長男の泰玄(テヒョン)さんの自宅で、50年以上にわたって静かに保管されていたものです。
2019年に泰玄さんと出会い、家族外の人間として尹紫遠の日記を初めて手に取った宋恵媛さんの目には、そのノートやメモ帳の束は「宝箱のよう」に映ったそうです。なぜだかわかるでしょうか。
同時代の日本人による日記は数多く残り、公刊もされていますが、在日朝鮮人の場合は大きく事情が異なるからです。そもそも書かれた量自体が相対的に少ないと想定され、公刊物としてはほとんど存在しないのだと、宋さんはいいます(特に、在日朝鮮人一世)。
植民地期には、前提としての識字率自体に、日本人と朝鮮人との間で大きな差がありました(女性は特にそうです)。尹紫遠はその中で文章を書くことにこだわり続け、常に肉体労働に従事しながらも、合間の時間で短歌、小説、エッセイ、そして日記を書き続けました。
そうした歴史的な文脈や背景を、私はよく理解できていませんでした。「そうか、そうなのか」という最初の思いが、この本をつくるにいたった大きな理由の一つです。
どれだけ書いても、彼は無名でした。
そして、彼のことも、彼が書いた時代のことも、私は知りませんでした。その一方で、宋恵媛さんは彼の文章、彼のテクストに長く向き合ってきました。そんな地点から、今回の企画はスタートしています。
2022年11月、琥珀書房の山本捷馬さんに宋さんを紹介いただきました。二人で実際に会って話をすると、その日のうちに、一緒にやってみたいこと、やるべきことの具体的なイメージが浮かび上がってきました。
まずは、尹紫遠の「密航」をたどり直すこと。朝鮮南東部の蔚山(尹紫遠の生まれ故郷です)から、日本の山口まで。どこの海岸から出発し、どこの海岸へとたどり着いたのか。そして、どこで捕らえられ、どこに閉じ込められていたのか(収容の経験は、一か所にとどまりませんでした)。
彼が書いた自伝的作品「密航者の群」に埋め込まれた細かな記述を拾い上げ、現代の地図と照らし合わせながら、日本の山口や長崎、そして韓国の釜山や蔚山で、具体的に訪れるべき場所を決めていきました。
私が尹紫遠の長男である泰玄(テヒョン)さんに初めてお会いしたのは、2023年の年明けのことです。宋さんだけでなく、写真家の田川基成さんと一緒に伺いました。
1949年に渋谷区広尾の赤十字病院で生まれ、先ほどの白黒写真ではまだ幼かった泰玄さんは、すでに70代になられていました。
私たち4人は二日間レンタカーを借り、連日、朝から晩までかけて、東京周辺に点在する様々なゆかりの場所を一緒にめぐりました。
家族が住んだ目黒区の各地(中目黒 → 蛇崩 → 旧・大原町 → 旧・月光町)、父が泳いだ多摩川の土手、子どもたちが通った朝鮮学校や夜間中学(の跡地)、泰玄さんが勤めた丸の内の三菱ビル、母が晩年に暮らした清瀬市の都営団地、埼玉県にあるお墓などです。
泰玄さんからお話を聞く中で、植民地期から戦後にいたる個人としての尹紫遠の歩みだけでなく、彼と結婚した12歳年下の日本人女性・大津登志子(おおつ としこ)の境遇、そして二人のあいだに生まれた3人の子どもたちそれぞれの人生へと、関心はどんどん広がっていきました。
「朝鮮人」である尹紫遠と結婚したことで、「日本人」として生まれ、当時20代の半ばだった登志子と大津家との縁は切れました。彼女はその後、夫とともに日本の国籍を失い、「朝鮮人」になり、「外国人」になりました。日本の当時の仕組みがそのように決めたからです。そして、どうあがいても消えない貧しさが、生活を支配し続けました。
私たちが西日本や韓国の各地をめぐったのは3月のことです。尹紫遠が子ども時代を過ごした故郷の蔚山(ウルサン)を歩く中で、彼にとっての別のつながり、つまり蔚山の両親、7人のきょうだい、そして「最初の妻」の存在が、改めて見えてきました。尹紫遠が生まれた朝鮮が日本の植民地であったことは、決定的な意味を持ちました。
1951年に生まれた長女の逸己(いつこ)さんとの出会いは、もう少しあとになります。それがあとになったことの意味も含めて、この本には書きました。
彼女の人生を描く予定は元々ありませんでした。当初はその意味に全く気づけていませんでしたが、もし逸己さんからお話を聞くことが(でき)ないままであったら、この本は全く違うものになっていただろうと、今は思います。
書くことの難しい、書き残すことの難しい少数者の中でも、女性たちはさらに少数者です。様々な困難に直面しながら、それでも「書く人」であり続けようとした尹紫遠は男性でした。だからこそ、この本では、女性たち一人ひとりの存在に、その言葉に、その痕跡にできるだけ目を凝らそうとしました。
逸己さんのパートはこの本の最後にあります。そこまでぜひ、読んでいただけたら嬉しいです。
この本のかたち
この本は少し変わった構成になっています。
「密航」がなされた「1946年の夏」を重要な分岐点としてじっくり描きつつ、一度「その前の時代」に戻り、再び「1946年の夏」を通過して、「その後の時代」を描いていく、という流れです。
「密航 1946」
(1946年夏の「密航」)
↓
「第1章 植民地の子ども」
(「密航の前」の時代 ≒ 植民地期)
↓
「送還 1946」
(再び1946年夏、もう一つの「密航」)
↓
「第2章 洗濯屋の家族」
(「密航の後」の時代、現在まで)
二度出てくる「1946年の夏」は宋恵媛さんと私で一度ずつ分担し、「第1章 植民地の子ども」は宋さんが、「第2章 洗濯屋の家族」は私が担当しました。
もちろん、それぞれの責任で執筆をしていますが、執筆の前提となる取材や調査などには共同で取り組みました。互いの原稿にも何度もコメントを寄せ合いました。
そのようにして、この本は書かれています。
より詳細な目次はこちらをご覧ください。
宋恵媛さんが担当した「第1章 植民地の子ども」では、尹紫遠がその時代にいた場所に合わせて、朝鮮→日本→朝鮮という時系列でパートを組み立てました。
私が担当した「第2章 洗濯屋の家族」では、家族の一人ひとり(父、母、息子、娘)に合わせてパートを分け、それぞれの人生を描きました。
『ニッポン複雑紀行』がこれまでずっと大切にしてきたように、この本でも写真を大切にしています。
まず、本の冒頭にたっぷり16ページ分のカラー写真を配置しました。
加えて、本文中にも100枚近くの写真を掲載しています。私たちが歩いた様々な場所の風景を伝えられるよう、工夫を重ねました。
ご家族から提供いただいた貴重な資料(写真、日記、手紙など)も数多く載せました。写真の中には、古くは20世紀のはじめごろに撮られたとおぼしき妻・大津登志子の祖父母の写真(登志子の親族はきわめて裕福でした)から現在に近い時期のものまでがあり、地理的には日本だけでなく朝鮮半島や「満洲」で撮られたものまでが含まれます。
写真の細かい配置や紙の選択などにもこだわりました。田川基成さんの写真、ぜひ直接手に取って見てみてください。
『ニッポン複雑紀行』の読者のみなさまへ
ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』は2017年に始まりました。それからすでに6年が経ちます。
その後の時間の経過、様々な方たちから聞かせていただいたお話の数々を思い浮かべながら、プロローグでは次のようなことも書きました。
これまで日本各地で移民や難民をめぐる様々なテーマでの取材や聞き取りを行い、記事をつくってきた。周縁化された外国人の労働、ルーツを別にする夫婦や親子間の葛藤、故郷を離れざるを得なかった人々の経験、在留資格や国籍を持たない少数者たちの生。それらの一つひとつが、本書の色々な側面と響き合っているように思える。
百年を超える尹紫遠とその家族の歴史の背景には、植民地、警察、戦争、占領、移動、国籍、戸籍、収容、病、貧困、労働、福祉、ジェンダーなど、様々なテーマが見え隠れする。誰かが「書くこと」と「書けること」についても、重要な主題となった。
『ニッポン複雑紀行』を立ち上げてすぐの頃から、このウェブマガジンの書籍化についての話は何度もありました。
ただ、様々な形でのお声がけをいただきながらも、「これだ」と思える具体的な姿をイメージすることがなかなかできずにいました。やるべきときが来ればやればいい、無理にやる必要はないとも考えてきました。
私にとって、この本はまさに『ニッポン複雑紀行』です。尹紫遠とその家族の歴史はきわめて個別的ですが、そこにはこの日本という国で、ニッポンという社会で、数多くの少数者たちが通過してきた普遍的な経験が刻まれています。
そんな思いから、宋恵媛さんと田川基成さん、そして難民支援協会の皆さんに相談し、柏書房の天野潤平さんにお願いして、この企画を一緒に(急ピッチで)つくってきました。
泰玄さんと逸己さんにもたびたびご負担をおかけしました。これまで様々な無理を聞いてくださったみなさんには、感謝の気持ちしかありません。この本には、関わってくださった一人ひとりの献身とアイデアとが注ぎ込まれています。
だからこそ、これまで『ニッポン複雑紀行』を読んできてくださった方にも、そうでない方にも、この『密航のち洗濯』という本をぜひ読んでみてほしいと思っています。発売は1月上旬の予定ですが、すでにオンラインの書店(Amazonなど)では予約ができます。
地元の本屋さんにも、ぜひ注文を入れてみてください。価格についても、できるだけ手に取りやすくなるよう工夫を重ねました。少しでも読んでみたいと思えたら、この記事のシェアも、ぜひお願いします。
誰かが「無名」であることには理由があります。
私たちは無名の人びとを知らない。かれらの人生を知らない。読まれるべき文章、聞かれるべき言葉を、この本には詰め込みました。
一人ひとりの読者との出会いを、楽しみにしています。
*書店やメディアの方など、書籍『密航のち洗濯——ときどき作家』(文:宋恵媛・望月優大/写真:田川基成)へのお問い合わせは、出版元の柏書房(担当:天野さん)までお願いします。