JARニュースレター "for Refugees" Vol.29 Sep. 2024

アラブの春で全てが変わった ー イエメン内戦から日本へ

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アラブの春で全てが変わった ー イエメン内戦から日本へ

世界最悪の人道危機の一つと言われる2015年に勃発したイエメン内戦。混乱のはじまりは、2011年からアラブ諸国で広がった民主化運動「アラブの春」でした。
アラブの春の後、イエメンでは長期政権を担ったサレハ大統領が退陣し、ハディ新政権が誕生しました。しかし、政府の混乱に乗じてイスラム教フーシ派が勢力を拡大。首都を奪い、ハディ政権を追放します。その後、隣国サウジアラビアが軍事介入、イランがフーシ派を支援し、代理戦争の様相を呈した内戦へ。最近ではガザ危機の影響も加わり、市民の苦しみが一層深まっています。

イエメンから逃れ、最近、難民認定を得たハッサンさん(仮名)に話を伺いました。

書類のみを撮影しようとしたところ、照れくさそうに難民認定証明書を顔の前にかかげてくれました。

ーー 2011年アラブの春では、イエメンでも多くの人たちが民主化を求めて声を上げました。当時10代後半だったハッサンさんにとってどんな経験でしたか?

アラブの春で全てが変わりました。起きた直後は希望を感じました。でも、希望はすぐに打ち砕かれました。私が暮らしていた地域はスンニ派が多いのですが、武装組織フーシ派の支配地域となってしまったのです。日々の生活の安心と安全が失われました。大学進学の道が絶たれ、自分の将来が何も見えなくなりました。夢を全て失いました。

ーー 国を離れざるを得なくなった経緯を教えてください。

フーシ派による支配が強まるなか、独身男性や教育を受けた男性が誘拐されるようになりました。フーシ派の批判をする可能性がある人たちだからです。兄弟3人のうち独身の自分だけが狙われるようになりました。友人の一人は誘拐され、もう一人は行方不明です。母は恐怖で心臓の病を患ってしまいました。

はじめてフーシ派が私に接触してきたのは2015年。あるイベントに参加した時のことです。フーシ派のメンバーが潜んでいて、「こいつだ」という感じで私を指差してきました。その後、フーシ派の兵士にならないかと自宅に押しかけてきました。断れば暴行されることは自明だったので、その場ではわかったと伝えましたが、危険なことになると思い、数日後、隣国に避難しました。

数年海外を転々とし、ほとぼりが冷めただろうと帰国したのですが実際は違いました。帰国後すぐに再びフーシ派の兵士が自宅に来て、連行され、ひどい暴行を受けました。今でも体に傷が残っています。ここにいては命が危ないと感じ、家族の助けも借りて、また国を出ることになったんです。

ーー なぜ日本に来ることになったのですか?

本当は欧州に行きたかったんです。でも危険すぎました。友人たちが欧州を目指し、極寒のポーランド国境で亡くなっています。日本が難民を受け入れていることはネットで知りました。同時に受け入れに厳しいという情報も。それでも、なんとか認めてくれるのではないかと思い、日本行きを決意しました。

ーー 難民申請中の生活はどうでしたか?

結果を待つ1年半は心身ともに大変でした。それでも来日してからは身の安全を感じることができています。持ち金が尽きて路上で寝たこともありましたが、誰かに襲われるわけでもなく、物を取られるわけでもない。

申請の結果がでるまで平均3年かかると聞いた時は絶望的な気持ちになりました。体調不良で病院にかかることもありました。検査結果は問題なく、メンタルの不調の影響だろうと言われました。

ーー 日本で新しく知り合いはできましたか?

仕事が忙しいので友人を作る暇はないですが、JARのシェルターで出会った難民の人たちとは今も交流しています。自分で借りたアパートに引越した時には皆を招待して、イエメン料理でおもてなしをしました。職場の人たちにも恵まれています。認定のことを伝えたら、ケーキを買ってきてくれました。

ーー 難民認定を得た時はどんな気持ちになりましたか?

難民認定の結果を聞いた時はうれしくて涙が出ました。でも、家族、特に母と会えないことは辛いです。難民となる前は自分が国と家族を離れて逃れるとは想像すらしていませんでした。できれば家族を日本に呼び寄せたいです。

ーー どんなお母さんですか?

働き者で思いやりがあり、人前では絶対泣かない強い女性。でも優しい。認定の結果を受けた時は一番に母に伝えました。

ーー 仕事は何をしていますか?

ホテルの清掃の仕事をしています。言葉ができなくても機会をくれる職場です。実は、働き始めて1か月なんですが、この前スーパーバイザーに昇格したんです。多国籍のスタッフ9人の業務点検をする役割です。

ーー これから日本で何をしたいですか?

まずは日本語を学びたいです。それから、街の再建について勉強したい。戦争で荒廃した国を立て直すことが私の夢です。

ーー JARの支援について一言お願いします。

JARの支援すべてに感謝です。いつもそばにいてくれました。初めてJARの事務所にきた時は少し不安でしたが、何度か来るうちに信頼できる団体だとわかりました。自分もいつか寄付者になって難民を支えたいです。

取材後記

壮絶な経験とは裏腹に、穏やかで優しさが全体からにじみ出ているようなハッサンさん。インタビューでは、内戦がいかに簡単に人の人生を狂わせるか、生き抜くために彼が選んだ日本への逃避がいかに切迫したものであったかを教えてくれました。家族や友人との別れや喪失、来日後も続く不安や孤独が言葉の端々から伝わり、故郷を追われて生きることの厳しさを改めて痛感しました。

それでも未来への希望や人への深い愛情を手放さない彼のたくましさもインタビューを通じて感じました。照れくさそうに顔の前にかかげてくれた難民認定証明書。その一枚の薄い紙が与える安心を大切に抱きしめるような姿が印象的でした。ハッサンさんの話を通じて、日本社会が難民を受け入れることの意味を改めて考えるきっかけになればと思います。

※ 個人が特定されないよう、一部の情報を加工しています。

この夏の支援 (期間:2024年6月~8月)

 この夏も、日々新たに来日する難民の方を迎えつつ、継続支援が必要な方にも伴走し続けています。猛暑の影響などで体調を崩す方、持病がある方、重篤な疾患が見つかった方などに対して3か月間で53回、スタッフやインターンが医療機関に同行しました。

宿泊先の提供ができず、野宿を強いられたり、ネットカフェを転々とせざるを得ない方もいます。最低限の生活を保障するはずの公的支援をすぐに得られず、JARをはじめとする支援団体からの支えで日々を生き延びています。

来訪される方の多くは、従来と同じくアフリカ各国から逃れてきた方々です。この期間に来訪された方412人のうち約7割がアフリカ出身でした。夫婦や乳幼児含めたお子さん連れなど、家族での来訪も少なくありません。親の相談が終わるのをじっと待つ子どもたちもいます。先月、一人で塗り絵をしていた男の子が急に立ち上がり、「これ、パパの分!」と支援物資棚の服を手にスタッフに駆け寄ってきたのですが、幼いながらに親の状況を理解している様子が伺える出来事でした。

難民認定の手続きや生活支援に加えて、就労に関する相談もあります。履歴書の書き方、ハローワークの使い方などを助言し、自力で仕事を探せるようサポートしています。情報や仕事の機会を得るためには人との繋がりを積極的に作っていくことも重要だと伝えています。

いずれの支援も、個人や企業・団体の方々からのご寄付、寄贈など、さまざまなご協力に支えられています。ボランティアの方々のご協力も大きな力となっています。これからも、多くの困難な状況に置かれた難民の方々に心を寄せ、ご支援をくださいますよう、お願いいたします。

【この夏の支援実績】

  • 事務所や収容所等での相談件数 1,077件
  • リモートでの相談件数 1,441件 (電話やメール、オンラインビデオ通話による相談・支援)
  • シェルター・宿泊費提供人数 89人  (期間前からのシェルター入居を含む)
  • 物資の宅配数 106件

【いただいたご支援】

  • ご寄付の総額: 15,897,230円(756件)

*夏の寄付の案内開始(2024年6月15日)から2024年8月31日まで。なお、同期間にいただいた一部の大口寄付を除きます。

いただいたご寄付をもとに、難民の方々への直接支援のほか、政策提言や広報活動にも引き続き取り組んでいます。

私は生きている。だからきっと大丈夫 ー 難民と共にイベント開催

「私はすべてを失った。でも、今日、わかった。私は生きている。だから私はきっと大丈夫だって思えた」。昨年に続き開催した6月の世界難民の日イベントに参加した難民の方の言葉です。母国ですべてを失い、なんとか日本に逃れてきた彼女は、この日、同じ境遇の仲間たちと食事を囲み、歌い、踊ることで「生きている」と実感したそうです。

困窮する生活、孤独な日々をひと時でも忘れてほしいと企画した本イベント。難民の方々も料理や出し物の準備をしたり、司会や撮影を担当するなど共に作り上げました。当日は、ジンバブエやコンゴ民主共和国など32名の難民が参加。手品、食事、歌やダンスを楽しみました。相談に来るときとは違い、多くの笑顔が溢れました。言葉を使わないレクリエーションや飛び入り参加の歌やスピーチもあり、盛りだくさんの会となりました。

最後に、母と共に逃れてきた10代の参加者が日英で歌を披露。「家族や友人はここにはいないかもしれない。だけど、私たちはみんな”家族”」という言葉に参加した方々は皆深く頷きました。一日も早く難民として認められ、大切な人たちと日常の喜怒哀楽を共にできることを改めて願うイベントとなりました。

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トークイベント『難民やLGBTQじゃなくて、「わたし」の話』開催

世界難民の日によせて本イベントを開催し、約50人にご参加いただきました。さまざまに話が及びましたが、参加者にとって最も印象深かったのは、社会的マイノリティの人たちに対するラベリングについてです。映像で当事者2人から、民族やLGBTQとしてくくられがちだけれど、その人個人「わたし」を知ってほしいこと。同時に、「難民やLGBTQなんて関係ないよね」と言われることにも違和感があり、大切なアイデンティティの一部であることが、語られていました。

本イベントのキーワードは「交差性」と「自分ごと」です。難民だけに焦点を当てるのではなくLGBTQなどほかの視点も交えることで、この社会にある課題の共通性を考えました。遠い誰かの話ではなく自分にも関係がある、との感想もありました。

なお、映像協力者のリスクを考慮し、アバター※の姿に加工して映像を作成しました。SNSでは、外国籍者や特定の民族、トランスジェンダーの方へのヘイトが過激化している現実もあります。当事者が声を上げることが難しいなか、支援活動の中で聞こえる声を届けていきます。

第一部:当事者2人による対談映像の視聴

映像出演者

– 難民の背景を持つ20代女性の方
– ゲイである20代男性の方(日本人)

第二部:ディスカッション

パネリスト

– 松岡宗嗣さん(一般社団法人fair 代表理事)
– 田中志穂(難民支援協会スタッフ)

※ アバター:デジタル空間上の自分の分身のこと

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支援活動を支えるボランティア

JARの支援現場は、ボランティアの皆さまの力で支えられています。2023年2月より事務所でのボランティア活動を再開して1年半。現在、約50名の方々に定期的に活動いただいています。

活動時間は午前と午後に1回づずつ。難民の方々に提供する食料などを小分けする仕事が中心です。果物や野菜、パンを日々の来訪予約人数に合わせて調達し、単身や家族用など小分けにします。資料整理や郵送物の発送作業や事務所に届いた物資の仕分けなども行っています。

「自分にできる方法をみつけて行動に移すことで風向きは変えられる」。先日ボランティアの方に伝えられた言葉です。同じ思いを持つ皆さまと活動できることに感謝しています。

東京マラソン2025:51名の方々がチャリティランナーに!

JARは2004年に引き続き、東京マラソン2025チャリティでも寄付先団体となりました。JARを支援するチャリティランナーは51名。今回初めてJARを選んでくださった方もいます。東京マラソン2025は、来年3月2日(日)開催です。当日、沿道での応援も行いますので、お時間のある方はぜひご参加ください!

ご支援くださった皆さまからの声をご紹介します

日本に安心を求めて来られた皆さんが、日本に来て良かったと思って頂けますように。一日も早く、心穏やかに暮らせる日が訪れますように。

苦しい状況を逃れて日本に来た方々の安心、安全に少しでも役立てれば嬉しいです。難民の方への日本政府、入管のやり方には怒りを覚えます。

今回の法改正はやはり問題です。広く難民を受け入れ、申請の段階から難民の方が自立できるまで国による援助がなされるようになることを望みます。それが実現されるまで、協会の働きを市民として支援したく思います。 

ご寄付に寄せて、大変多くの方からメッセージを頂戴しました。ありがとうございます。困窮している難民の方への思い、入管法・政策への憤り、スタッフを労ってくださる言葉など、一つひとつのメッセージをスタッフで拝見しております。思いを受け止め、難民の尊厳と安心が守られるよう、取り組みを続けます。

関連ページ:皆さまからのメッセージ(「寄付で支える」)

JARは設立から、25周年を迎えました。

JARは1999年7月に設立し、今年で25年になります。この間、日本で難民を取り巻く状況は変化しました。難民受け入れに理解や協力をしてくださる方も、大変多くなりました。適切な難民認定・保護の実現を目指し、これからも一つひとつすすんでまいります。どうか、これからもご支援をよろしくお願いいたします。

難民支援協会 スタッフ一同

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