難民支援協会と、日本の難民の10年

第4回前編 クルド難民強制送還事件:国、国連、市民はどう動いたのか

2005年1月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民と認めたトルコ国籍のクルド人、カプランさん(仮名)とその長男が、法務省入国管理局(入管)に収容され、翌日にトルコに強制送還される事件が起こりました。二人の難民性を認めながらUNHCRには彼らの送還をとめる手立てはなく、処遇の改善を求めた弁護団や難民支援協会(JAR)の訴え、また誰よりも身近で支え続けた東文男さんらによる6万の署名者の声も、聞き遂げられることはありませんでした。強制送還にいたるまでの入管の対応と、国連やJAR、そして東さんのような一市民それぞれの難民へのかかわりを振り返ります。また「難民性を判断する」ことが、いかなる意味を持つのか考えます。

強制送還の前触れ:申請者の身辺調査とUNHCRによる難民性の判断

 「国を持たない最大の民」といわれるクルド人は、トルコ、イラン、イラク、シリアに暮らしますが、各地で少数民族として迫害を受けることも多く、イギリスやアメリカなどはクルド人を難民として受け入れています。日本には主にトルコ出身のクルド人が保護を求めてきており、日本における難民申請者の国籍別内訳では2番目に多い数にのぼっています。しかし、これまで難民として認定されたトルコ出身者は一人もいません。 

*クルド人居住地域については諸説あります


 クルド人申請者の難民性は低いとの前提のもと、入管は少なくともこれまでに2回、職員を現地に派遣し、難民申請者の情報をトルコ政府や警察と交換し、また地元の憲兵と一緒に申請者の出身地を尋ね、親族を訪問するなどの身辺調査を行いました。カプランさんも調査の対象でした。

 これに対しUNHCR日本・韓国地域事務所(現駐日事務所)は、難民申請に関する情報を母国政府に提供することは「難民認定手続きの秘密保持などに関する国際的な基準に反する」とし、また調査によって申請者の身がより危険にさらされたと判断し、カプランさんを「マンデート難民」としました。「マンデート難民」に認定するとは、難民条約にある難民の定義に照らして難民性が高く、とりわけUNHCRの支援任務(マンデート)つまり援助の対象にすべき人を明示する意味合いがありました。

決死の座り込みと支援のひろがり

 当時、カプランさんは、難民認定をめぐる裁判を待ちながら、妻、息子2人、娘3人をかかえ、収入もなく、苦しい生活を送っていました。やっとのことで埼玉県の定時制高校に入学させた二女、三女の通学にも支障が出ていました。出口の見えない困窮した生活や、クルド人が誰一人難民として認められないことへの怒りが積み重なって、2004年7月、カプラン一家は仲間のクルド人申請者ヤマンさん(仮称)一家とともに、UNHCRの事務所がある東京・青山の国連大学前で座り込みを開始します。マンデート難民と認めてくれたUNHCRが、難民認定にむけてより積極的に動いてくれるだろうとの期待による選択でした。

 一学期の終業式に久しぶりに登校してきた二女、三女のただならぬ気配を心配した担任教師の東文男さんは、駆けつけた国連大学前で路上生活者の様相の二人をみつけ、ショックを受けたといいます。マンデート難民だからすぐに法務省から難民認定が下りるだろうとの期待は裏切られ、「これでは二人がつぶれてしまう。早く解決し、普通の高校生に戻って欲しい、何とかせねば」と、東さんは難民認定を訴える署名と募金運動を始め、クルド人難民二家族を支援する会を立ち上げました。

 学生、主婦、会社員など市民の間にも多くの支援の輪が広がり、座り込みも2ヶ月を越えた9月下旬、思いもよらない形で結末が訪れます。撤収する様子のない2家族を強制的に退去させようと国連大学前に警備員が集まり、緊張した雰囲気に包まれたなか、突然、カプランさんヤマンさん兄弟が焼身自殺をはかったのです。東さんやJARスタッフなど駆けつけた支援者の必死の説得で、最悪の事態は回避され、自主退去という形で座り込み抗議を終えることになりました。

 この間、座り込みの様子がマスコミで大きく報じられたこともあり、多くの署名やカンパが集まりました。東さんたち支援者は集まった6万の署名を仲間の国会議員とともに法務省に届け、収容や母国への送還をやめるよう請願していました。そのため、彼らの状況がこれ以上悪くなることはない、少なくとも、裁判が続いていたこともあり、強制送還の可能性はないと、このときは確信していました。

後編に続く)

2010年4月12日掲載