中部アフリカに位置するコンゴ民主共和国出身のシャバニさん(30代)は、妻と子どもを残し、単身で日本に逃れきてきた。コンゴの公用語はフランス語だが、彼は英語、リンガラ語含め5つ以上の言葉を話す。日本に来てから学んだ日本語の上達も目覚ましい。来日直後はホームレス状態になるほど困窮し、苦しい生活を余儀なくされた。今は仕事が決まり、生活は落ち着いている。来日して2年が経つが、難民申請の結果はまだ出ていない。将来の展望は見えない。会えない娘のことを考えると胸が苦しくなるという。
身に覚えのないことから逮捕、拷問
コンゴでは、自身で会社を立ち上げ、貿易の仕事をしていた。商売をして自分の力で稼ぐことを教えてくれたのは、母親だ。小さい頃から、何もせずに母親からお小遣いをもらうことはなかった。自分で体を動かしたり、母親を手伝ったりした対価としてもらうというのが彼にとってのお金だった。そんな母親からの教育を受けてか、貿易の仕事は順調だった。
しかし、ある日を境にそんな平穏な日常が急変した。政情不安が続く母国で、身に覚えのないことに突然巻き込まれ、警察に逮捕された。数週間に渡り、激しい拷問も受けた。今も体に残るその時の傷跡が何よりの証拠だ。同じく監禁され、拷問を受けた人が、独房に戻ってこなくなったのを見て、自身の死も覚悟したという。シャバニさんにとって、思い出すことすら辛い過去だが、時折言葉に詰まりながらも話してくれた。
その後、知り合いのつてで何とか独房を抜け出すことができた。だが、外に出ても命を狙われる状況は変わらず、町を転々とした後、国外に逃れることを決意する。日本に来たのは偶然ビザが取れたからだ。貿易を通じてアジアには馴染みがあったが、日本には縁もゆかりもなかった。しかし、他に選択肢はなく、妻と幼い娘を残し、とにかく身の安全を確保するために母国を後にした。
住所を頼りにJARへ
来日を手引きしたブローカーに難民支援協会(JAR)のことを聞き、ネットで住所を調べ、四ツ谷駅に降り立った。秋が終わり、冬の寒さを感じる頃だった。すぐに事務所が見つけられず、困り果てて道行く男性に英語で声をかけたところ、その人がスマホで地図を見ながら、事務所まで連れそってくれた。日本に来てからの宿代や交通費、ブローカーへの支払いで持ち金は3,000円ほどだった。
JARにたどり着いたものの、「今夜寝る場所が必要」という彼に提供できるシェルターはなかった。すぐに外務省保護費の申請を出した。受給できるまでの数ヶ月は、JARからの支援でしのいだ。シェルターが空くまでの3週間は、ネットカフェや24時間営業のファーストフードなどを転々とした。「あんな生活はしたことがなかった。体もきつかったが、気持ちの方がもっときつかった」と当時を振り返る。その後、JARのシェルターへ入居し、就労が許可されるまでの半年間を、外務省保護費でなんとか食いつないだ。
仕事があることはとても重要
「働くことが好き。仕事が大変か楽かは関係ない」と笑顔で語るシャバニさん。JARの支援を受け、現在は、都内から1時間半ほどの関東近郊で働いている。「日本に来たばかりで働けなかった時は苦しかった。ただ寝て、起きる。その繰り返し。余計なことばかり考えてしまう。仕事がある今は、朝起きて、仕事行って、スーパーに買い出しに行って、料理して、週末は掃除して……。生きるために、自分自身を使うことができる。だから仕事があることはとても重要」
いわゆる田舎暮らしにもすっかり慣れたようだ。「今暮らしているところはすごく田舎。黒人を見たことない人ばかり」だという。もちろんコンゴ出身者もいない。「はじめはあまり話さない人ばかりで、オープンマインドな人が少ないと思ったけど、今では、みんな、自分のことを知っている。スーパーの人も、警察の人も、みんな」
ビジネスでさまざまな国の人とやり取りをしてきた彼は、日本の状況をこう分析する。「日本の人は、日本語ができるとわかると急に親切になる。本当は話したいけど、日本語で通じないから怖いんだと思う」
職場で一番の仲良しは加藤さんだが、出会った当初は全然話してくれなかったそうだ。シャバニさんから積極的に「おはよう。元気?ご飯食べよう」と話しかけ、距離を縮めた。「日本語はキー。話して、笑って、ジョーク言って。上手いか下手かは関係ない。とにかく話かけることが大事」。シャバニさんは職場のムードメーカーだ。彼を通じて「難民」のこと知った同僚たちは、今ではコンゴのニュースをネットで調べて「こんな事件があったね。これは大変な状況だから母国には帰っちゃいけないよ」と声をかけてくれる。
支援がほしいわけじゃない
親しくなった人もいるが、「難民」と知って自分のから離れていった人もいる。「難民=物乞いのイメージを持っている人もいると感じる。難民自身が問題じゃないのに誤解されていると思う。みんなが難民を歓迎したいわけじゃないこともわかる」。支援を受け、自立につながった彼だが、「本当は支援を受けたかったわけじゃない。自分はこれまで自分の力で働いて稼いできた。だれかにお金をもらう、面倒をみてもらうことは望んでいない」と語気を強める。
同時に、支援への感謝も口にする。「JARが僕の生きる道を示してくれた。今生きているのはJARのお陰。特に就労支援のプログラムの提供や、通うための交通費をサポートしてくれたのは本当にありがたかった」
生活はだいぶ落ち着いたが、難民申請が遅々として進まないことに苛立ちを隠せない。申請してからもうすぐ2年。入国管理局からは全く連絡がなく、自分が提出した書類が審査されているのかもわからず不安になる。「助けを求めて逃れてきた人にドアを開けるということは、命を助けること。日本にはもっと難民をウエルカムしてほしい」と願う。
厳しい状況だが彼は、希望を見失わない。「遠くに飛ぶ時は数歩下がって助走が必要。今の僕は前に進んでないかもしれないけど、きっと将来のために必要なんだと思う」と自身を鼓舞する。
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