テュアン シャン カイさんは在日ミャンマー難民2世。政治的迫害のため日本に逃れたチン民族(ミャンマー北西部チン州をルーツとする少数民族)の両親のもと東京で生まれ育ち、高校卒業後は奨学金を得て関西学院大学総合政策学部に進学した。
大学1年生のとき、日本で暮らす難民の料理を紹介するレシピ本『海を渡った故郷の味』(難民支援協会発行)をもとに「食を通じて難民を知る」、Meal for Refugees(M4R)プロジェクトの立ち上げに携わった。これは、『海を渡った故郷の味』で紹介された難民の料理を、大学の学生食堂で提供する初めての試み。好評を得て、これまで通算25大学の学食で展開してきたMeal for Refugees。シャンカイさんはプロジェクトの代表としてこの試みをさらに広げる活動に従事しつつ、後継者づくりにも尽力している。
大学4年生、すでに就職も決まったシャンカイさんにここに至るまでのさまざまな出来事、生まれ育った国日本と、祖国ミャンマーについて、いま思うことをきいた。
――ご両親はどんな経緯で日本にいらっしゃったのでしょうか。
1988年、ミャンマーで大規模な民主化運動が起こるなか、両親が所属する反政府団体の政党が迫害を受けて、党員が逮捕される事態になってしまいました。僕の両親も「次は自分たちが逮捕される」「このまま国にいては非常に危ない」と、同じ政党の仲間や親戚が既に逃れていた日本に行くことを決意しました。1991年のことです。その2年後、1993年10月に僕が生まれました。
日本のチン民族コミュニティでは、僕の両親が比較的初期のメンバーで、そこからだんだんと増えてゆきました。現在200人くらい。僕たち家族もクリスチャンですが、日本のチン・コミュニティは教会を基盤にしていまして、日曜日の礼拝で顔を合わせては、皆いろんな話をしています。たとえば「職場に一人空きが出たから誰かこない?」とか。
――ご両親がいらした1990年代の初期、難民申請に関する情報を得るのは難しかったのでは?
現在のJARのような組織もなく、情報を知る手立てはまったくなかったようです。両親の場合は、方法を知らなかったこともありますが、来日した当初は食べていくのに必死だったために難民申請手続きができないまま時間が経ってしまいました。申請手続きを行ったのは僕が小学生のときです。提出書類は相当な束になりました。すべて日本語に翻訳しなくてはならないので、僕も小学生ながら翻訳を手伝って、「迫害」とか「亡命」とか、まず小学生の語彙にはない言葉をおぼえましたね。さいわい母が語学にたけていて、仕事をしながら独学で日本語の勉強をしていましたので、チンのコミュニティでは通訳・翻訳は母か僕、ということになりまして、他の方の申請書類も翻訳しています。
1991年当時、シャンカイさんの両親は切迫する危険のなか短期の観光ビザで日本に逃れた。その後の難民申請は却下され、現在は「人道配慮による在留許可」による「定住者」の資格を所持する。
――シャンカイさんが生まれたとき、ご両親は法的にも不安定な状態だったのですね。
健康保険証もなかったので、母が僕を出産したときは、新宿区にあるキリスト教系病院、聖母病院で事情を話したそうです。親身になって対応してくださったと聞きました。その後、大田区に引っ越したのですが、保険証がないので病院にかかる必要があるときは聖母病院まで行って診察を受けていました。
――ご両親はシャンカイさんが小さいときも共働きを?
僕が生まれて半年たたないうちに母は仕事を再開しました。両親が働いているあいだはチン・コミュニティの親戚が預かってくれました。日本のチン・コミュニティで生まれた初めての子どもだったこともあって、すごく可愛がってもらったようです。仕事で疲れていても、赤ちゃんだった僕を見てほっとした……といまになって聞きますね。
――きっとコミュニティの皆さんの「光」だったんでしょうね。
そうだったんでしょうね。自分で言うのも変ですけれど(笑)
――民族のコミュニティで育ったシャンカイさんが日本の学校に進学して、自分がまわりの人と違う、と意識するようになったのはいつ頃からでしたか。
小学校低学年の頃は自覚はまったくなかったですね。小学校4、5年生くらいになって、自分の名前が「テュアン シャン カイ」という、日本の名前ではない、すべてカタカナの名前であることに周囲との違いを感じはじめた……外国人であることを少しずつ自覚しはじめました。中学に入っていじめを受けていた時期があって、そのときから一気に「自分は外国人なんだ」という意識が芽生えました。
――いじめは「外国人であること」を理由とするようなものだった?
そうですね。見た目の違いなどですね。
当時は勉強が大嫌いで、成績は「下から数えたほうが早かった」シャンカイさん。彼を支え、変えたのは、在日難民とその子弟の生活・学習支援を行う「さぽうと21」のボランティアの先生たちだった。
――「さぽうと21」には、いつ頃から、どんなきっかけで通うようになったのですか?
チン・コミュニティの紹介で、小学校5年生から高校卒業までずっと勉強をみていただきました。当時は子どもが少なかったので、僕ひとりにボランティアの先生3人がついて、主要五科目をみっちり、個別指導で教えてくださいました。両親とも働いていましたので、ふだんは「テレビやパソコンがお友だち」でしたし、ともかく勉強がとことん嫌い。でも「さぽうと21」でしっかり教えてもらううちに、成績もだんだん上がってきました。「『さぽうと21』があったから大学にも入れたのかな」と思うほどです。
――勉強が大嫌いだったシャンカイさんの背中を押したのは何だったんでしょう?
「やるしかない」と思ったんですね。いじめを受けていたのは、絶対に成績が悪いせいでもあったんです。成績が上がってくるにつれて、まわりの見る目も変わってきて、信頼も得られるようになってきました。たとえば「この問題はどう解けばいいの?」と話しかけられるようになった。身にしみてうれしかったです。信頼がなければ、話しかけてももらえない。でも信頼さえあれば人間なんとかなると、中学一年ながらに思っていたので、そこから勉強に本腰を入れるようになりましたね。
「さぽうと21」では勉強もさることながら、進路についてなどいろんな悩みを話し、親身に相談にのっていただきました。僕にとって非常に大きな存在、「帰る場所」です。7年間もほぼ無償で教育を受けさせていただいたので、自分ができることは恩返しをしたいと思い、帰京したらできる限り出かけていって、事務作業や雑用を手伝っています。
難民、特に二世にとって「アイデンティティ」はひじょうに繊細で重要な問題。シャンカイさんの場合は、「日本で生まれ育った」「ミャンマーのチン民族」である。
――そもそもミャンマー自体が多民族国家であって、チン民族のシャンカイさんは「ミャンマー人」というのもまた違う?
便宜上「ミャンマー人です」と言っていますけれど、お話しする機会があれば「ミャンマーのチン民族です」と説明しています。チン民族にルーツがあることは、両親も必ず言うことです。チン民族のアイデンティティが自分にとっては強いですね。
――ご両親との会話はチン語ですか?
いまとなってはふだんの会話は日本語が多くなりましたが、昔はチン語でずっと僕に話しかけてきました。ですので、チン語も不自由なく話せます。両親の「チン民族としてのアイデンティティを失ってほしくない」との思いは、言葉の面からも感じますし、子供の頃は友だちとの交流はものすごく制限されていました。「日本人と遊ぶな」とまでは言われなかったですけれども、「お前は日本人じゃない、ミャンマー人として生きていくしかないんだよ」と。わからなくもないですが、中学生にもなれば付き合いがあるから遊びにいきたい。こういった制限は歯がゆかったですね。自分のなかで葛藤していました。
――チン・コミュニティから離れて、関西の大学に行くことにご両親は?
もちろん反対されました。ただ、同じコミュニティの2歳年上の先輩が既に関西の大学に進学していまして、彼の目の届く場所であればよいだろうと了承してくれました。関西で一人暮らしを始めてから、それまでの制限がなくなって、一気に活動の幅が広がりましたし、人とのつながりも増えてゆきました。関西に行かなければ、いま自分がやっているMeal for Refugees の団体を立ち上げることもなかったと思います。
――シャンカイさんのあと、コミュニティでは日本で生まれる二世も増えたと思うのですが、奨学金で大学進学も果たしたシャンカイさんはいわばモデルケースですね。
僕のあとに生まれた子たちの問題は、チン語がわからないということ。チン・コミュニティは日本語を積極的に学ぼうとする気風があって、みんな日常会話程度の日本語ができるのですが、いっぽうで子どもがチン語を学ぶ機会が失われています。ミャンマーのチン民族でありながらチン語が話せない。いまはまだ小さいからいいですけれど、成長して、周囲との違いに直面したときに民族の言語を知らないままで大丈夫だろうか、混乱しないだろうかと心配です。
たしかに僕は人からも「モデルケース」と言われるんですが、つねづね後輩には「俺を越えてゆけ」と言っています。「俺ぐらいで満足しないで、もっともっと上を行け」と。
日本で生まれ育ち、活動の幅をどんどん広げているシャンカイさんだが、いまも事実上「無国籍」状態である。両親同様、日本で「定住者」の資格は有するものの、パスポートの取得ができないなどの不利益がある。
――ミャンマーの経済発展と民主化が進むにつれて、在日ミャンマー難民、なかでもビルマ民族など多数派の人たちの中には帰国を決断する人もいるようです。少数民族であるチン民族は状況が異なりますが、ご両親から帰国の話が出たりすることはありますか。
父はこの8月で50歳になり、いまとなっては日本で過ごした時間のほうが長くなりました。チン州はミャンマーの中でも発展が遅れていることもあり、もし仮に帰ったとしても、生活さえままならない。真の民主化を実現しない限り、帰れる状況にはならないだろうと言っています。民主化が達成され、チン州にも発展があればもちろん帰りたいと両親は考えているようです。もし帰るのであれば応援したい。ただ僕自身は、正直言って既に母語は日本語です。日本で生まれて、日本で育って、死ぬなら日本だな、と自分では思っています。
――ミャンマーに、チン州に行ってみたい?
はい、もちろん。両親の生まれ故郷でもありますし、自分のふるさとだと思っていますので、いつか訪れてみたいです。
――シャンカイさん自身、日本への帰化についてはどのように考えますか。
非常に難しい問題です。チャンスがあれば帰化したいと思っていますけれど、それはミャンマーか日本か、どちらかを選ぶことになる。両親は間違いなく「ミャンマーにしなさい」と言うわけです。ただ僕にしてみれば、国籍が与えられるのであればどちらを選ぶかは書類上のことであって、ミャンマーのチン族の両親から生まれ、その血が流れていることには変わりがないのだから、もう少し考え方を広くしてもいいのではないかと思うんです。でも、両親が言うことにも一理あるので、これから何度も何度も話し合っていかなくてはと思っています。
――話は少し変わりますが、シリア難民問題について、日本は難民受け入れではなく、シリアに帰れるような支援をするべきだとの意見があります。これについてどう思いますか?
もちろんそういった支援も難民をなくす上で必要なことですが、現にいま、日本に来ているシリア難民の方がいるわけです。これからしばらくは増えても減る要素はないので、きちんとした枠組を考えて受け入れるべきではないかと思います。インドシナ難民の場合もある意味特別枠だったわけで、シリア難民に関しても、日本が世界レベルについていくのであれば、柔軟な対応が必要なのではと思いますね。現に日本にシリア難民の人がいて、いまのシリアの状態では帰れないわけですから。
現在大学四年生のシャンカイさんは既に就職先も決めた。東京にあるPR会社で、企業のプロモーションの提案をするプランナーとして仕事をはじめる予定だ。
――PR会社に決めたのは?
いろんな理由があるんですけれど、就職活動をするにあたって、自分が外国人であること、難民であることを非常に負い目に思っていて、最初に内定をいただいた企業に行こうと決めていたんです。いちばんに内定をくださったのがそのPR会社だったので、迷わず、満足して決めました。
――不安があるなかで就職活動をして、企業の反応はどうでしたか。
ふたをあけてみると、10社くらい受けたのですがほとんど最終選考まで行きました。就職先の会社は、最終面接で社長から「来てくれ」と言われたので、その場で決めました。正直、業種にこだわりはなくて、商社や鉄道などいろんな業界に志願していました。業種ではなく、自分という人間を見てくれる会社に行きたいと思っていて、最初に内定をくださった会社がまさにそうだった。置かれた環境でいかに自分のベストを出すかしか考えていないので、いっさい後悔はないです。
――社会人になって「こんなことをしたい」といった展望はありますか。具体的なことでも、抽象的なことでも。
しばらくは難民問題からも一線を引いて、会社の仕事に没頭しますが、いずれ社会起業家になりたいとは考えています。ビジネスをしながら社会貢献ができる仕組みをつくりたい、そのためにもまず社会に身を投じて、いろんなことを吸収して、そのなかで「これだ!」というものを見つけたら起業したいと思っています。
Meal for Refugees(M4R)のプロジェクトを立ち上げて成功した体験が、自分にとって大きな自信になっています。いろんな人に支えられてM4Rがあるのですが、一所懸命頑張れば、まわりの人もついてきてくれて、何とかなると感じましたので、その体験を今後も生かしていきたいと思っています。
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大学1年生のとき、日本で暮らす難民の料理を紹介するレシピ本『海を渡った故郷の味』(難民支援協会発行)をもとに「食を通じて難民を知る」、Meal for Refugees(M4R)プロジェクトの立ち上げに携わった。これは、『海を渡った故郷の味』で紹介された難民の料理を、大学の学生食堂で提供する初めての試み。好評を得て、これまで通算25大学の学食で展開してきたMeal for Refugees。シャンカイさんはプロジェクトの代表としてこの試みをさらに広げる活動に従事しつつ、後継者づくりにも尽力している。
大学4年生、すでに就職も決まったシャンカイさんにここに至るまでのさまざまな出来事、生まれ育った国日本と、祖国ミャンマーについて、いま思うことをきいた。
――ご両親はどんな経緯で日本にいらっしゃったのでしょうか。
1988年、ミャンマーで大規模な民主化運動が起こるなか、両親が所属する反政府団体の政党が迫害を受けて、党員が逮捕される事態になってしまいました。僕の両親も「次は自分たちが逮捕される」「このまま国にいては非常に危ない」と、同じ政党の仲間や親戚が既に逃れていた日本に行くことを決意しました。1991年のことです。その2年後、1993年10月に僕が生まれました。
日本のチン民族コミュニティでは、僕の両親が比較的初期のメンバーで、そこからだんだんと増えてゆきました。現在200人くらい。僕たち家族もクリスチャンですが、日本のチン・コミュニティは教会を基盤にしていまして、日曜日の礼拝で顔を合わせては、皆いろんな話をしています。たとえば「職場に一人空きが出たから誰かこない?」とか。
――ご両親がいらした1990年代の初期、難民申請に関する情報を得るのは難しかったのでは?
現在のJARのような組織もなく、情報を知る手立てはまったくなかったようです。両親の場合は、方法を知らなかったこともありますが、来日した当初は食べていくのに必死だったために難民申請手続きができないまま時間が経ってしまいました。申請手続きを行ったのは僕が小学生のときです。提出書類は相当な束になりました。すべて日本語に翻訳しなくてはならないので、僕も小学生ながら翻訳を手伝って、「迫害」とか「亡命」とか、まず小学生の語彙にはない言葉をおぼえましたね。さいわい母が語学にたけていて、仕事をしながら独学で日本語の勉強をしていましたので、チンのコミュニティでは通訳・翻訳は母か僕、ということになりまして、他の方の申請書類も翻訳しています。
1991年当時、シャンカイさんの両親は切迫する危険のなか短期の観光ビザで日本に逃れた。その後の難民申請は却下され、現在は「人道配慮による在留許可」による「定住者」の資格を所持する。
――シャンカイさんが生まれたとき、ご両親は法的にも不安定な状態だったのですね。
健康保険証もなかったので、母が僕を出産したときは、新宿区にあるキリスト教系病院、聖母病院で事情を話したそうです。親身になって対応してくださったと聞きました。その後、大田区に引っ越したのですが、保険証がないので病院にかかる必要があるときは聖母病院まで行って診察を受けていました。
――ご両親はシャンカイさんが小さいときも共働きを?
僕が生まれて半年たたないうちに母は仕事を再開しました。両親が働いているあいだはチン・コミュニティの親戚が預かってくれました。日本のチン・コミュニティで生まれた初めての子どもだったこともあって、すごく可愛がってもらったようです。仕事で疲れていても、赤ちゃんだった僕を見てほっとした……といまになって聞きますね。
――きっとコミュニティの皆さんの「光」だったんでしょうね。
そうだったんでしょうね。自分で言うのも変ですけれど(笑)
――民族のコミュニティで育ったシャンカイさんが日本の学校に進学して、自分がまわりの人と違う、と意識するようになったのはいつ頃からでしたか。
小学校低学年の頃は自覚はまったくなかったですね。小学校4、5年生くらいになって、自分の名前が「テュアン シャン カイ」という、日本の名前ではない、すべてカタカナの名前であることに周囲との違いを感じはじめた……外国人であることを少しずつ自覚しはじめました。中学に入っていじめを受けていた時期があって、そのときから一気に「自分は外国人なんだ」という意識が芽生えました。
――いじめは「外国人であること」を理由とするようなものだった?
そうですね。見た目の違いなどですね。
当時は勉強が大嫌いで、成績は「下から数えたほうが早かった」シャンカイさん。彼を支え、変えたのは、在日難民とその子弟の生活・学習支援を行う「さぽうと21」のボランティアの先生たちだった。
――「さぽうと21」には、いつ頃から、どんなきっかけで通うようになったのですか?
チン・コミュニティの紹介で、小学校5年生から高校卒業までずっと勉強をみていただきました。当時は子どもが少なかったので、僕ひとりにボランティアの先生3人がついて、主要五科目をみっちり、個別指導で教えてくださいました。両親とも働いていましたので、ふだんは「テレビやパソコンがお友だち」でしたし、ともかく勉強がとことん嫌い。でも「さぽうと21」でしっかり教えてもらううちに、成績もだんだん上がってきました。「『さぽうと21』があったから大学にも入れたのかな」と思うほどです。
――勉強が大嫌いだったシャンカイさんの背中を押したのは何だったんでしょう?
「やるしかない」と思ったんですね。いじめを受けていたのは、絶対に成績が悪いせいでもあったんです。成績が上がってくるにつれて、まわりの見る目も変わってきて、信頼も得られるようになってきました。たとえば「この問題はどう解けばいいの?」と話しかけられるようになった。身にしみてうれしかったです。信頼がなければ、話しかけてももらえない。でも信頼さえあれば人間なんとかなると、中学一年ながらに思っていたので、そこから勉強に本腰を入れるようになりましたね。
「さぽうと21」では勉強もさることながら、進路についてなどいろんな悩みを話し、親身に相談にのっていただきました。僕にとって非常に大きな存在、「帰る場所」です。7年間もほぼ無償で教育を受けさせていただいたので、自分ができることは恩返しをしたいと思い、帰京したらできる限り出かけていって、事務作業や雑用を手伝っています。
難民、特に二世にとって「アイデンティティ」はひじょうに繊細で重要な問題。シャンカイさんの場合は、「日本で生まれ育った」「ミャンマーのチン民族」である。
――そもそもミャンマー自体が多民族国家であって、チン民族のシャンカイさんは「ミャンマー人」というのもまた違う?
便宜上「ミャンマー人です」と言っていますけれど、お話しする機会があれば「ミャンマーのチン民族です」と説明しています。チン民族にルーツがあることは、両親も必ず言うことです。チン民族のアイデンティティが自分にとっては強いですね。
――ご両親との会話はチン語ですか?
いまとなってはふだんの会話は日本語が多くなりましたが、昔はチン語でずっと僕に話しかけてきました。ですので、チン語も不自由なく話せます。両親の「チン民族としてのアイデンティティを失ってほしくない」との思いは、言葉の面からも感じますし、子供の頃は友だちとの交流はものすごく制限されていました。「日本人と遊ぶな」とまでは言われなかったですけれども、「お前は日本人じゃない、ミャンマー人として生きていくしかないんだよ」と。わからなくもないですが、中学生にもなれば付き合いがあるから遊びにいきたい。こういった制限は歯がゆかったですね。自分のなかで葛藤していました。
――チン・コミュニティから離れて、関西の大学に行くことにご両親は?
もちろん反対されました。ただ、同じコミュニティの2歳年上の先輩が既に関西の大学に進学していまして、彼の目の届く場所であればよいだろうと了承してくれました。関西で一人暮らしを始めてから、それまでの制限がなくなって、一気に活動の幅が広がりましたし、人とのつながりも増えてゆきました。関西に行かなければ、いま自分がやっているMeal for Refugees の団体を立ち上げることもなかったと思います。
――シャンカイさんのあと、コミュニティでは日本で生まれる二世も増えたと思うのですが、奨学金で大学進学も果たしたシャンカイさんはいわばモデルケースですね。
僕のあとに生まれた子たちの問題は、チン語がわからないということ。チン・コミュニティは日本語を積極的に学ぼうとする気風があって、みんな日常会話程度の日本語ができるのですが、いっぽうで子どもがチン語を学ぶ機会が失われています。ミャンマーのチン民族でありながらチン語が話せない。いまはまだ小さいからいいですけれど、成長して、周囲との違いに直面したときに民族の言語を知らないままで大丈夫だろうか、混乱しないだろうかと心配です。
たしかに僕は人からも「モデルケース」と言われるんですが、つねづね後輩には「俺を越えてゆけ」と言っています。「俺ぐらいで満足しないで、もっともっと上を行け」と。
日本で生まれ育ち、活動の幅をどんどん広げているシャンカイさんだが、いまも事実上「無国籍」状態である。両親同様、日本で「定住者」の資格は有するものの、パスポートの取得ができないなどの不利益がある。
――ミャンマーの経済発展と民主化が進むにつれて、在日ミャンマー難民、なかでもビルマ民族など多数派の人たちの中には帰国を決断する人もいるようです。少数民族であるチン民族は状況が異なりますが、ご両親から帰国の話が出たりすることはありますか。
父はこの8月で50歳になり、いまとなっては日本で過ごした時間のほうが長くなりました。チン州はミャンマーの中でも発展が遅れていることもあり、もし仮に帰ったとしても、生活さえままならない。真の民主化を実現しない限り、帰れる状況にはならないだろうと言っています。民主化が達成され、チン州にも発展があればもちろん帰りたいと両親は考えているようです。もし帰るのであれば応援したい。ただ僕自身は、正直言って既に母語は日本語です。日本で生まれて、日本で育って、死ぬなら日本だな、と自分では思っています。
――ミャンマーに、チン州に行ってみたい?
はい、もちろん。両親の生まれ故郷でもありますし、自分のふるさとだと思っていますので、いつか訪れてみたいです。
――シャンカイさん自身、日本への帰化についてはどのように考えますか。
非常に難しい問題です。チャンスがあれば帰化したいと思っていますけれど、それはミャンマーか日本か、どちらかを選ぶことになる。両親は間違いなく「ミャンマーにしなさい」と言うわけです。ただ僕にしてみれば、国籍が与えられるのであればどちらを選ぶかは書類上のことであって、ミャンマーのチン族の両親から生まれ、その血が流れていることには変わりがないのだから、もう少し考え方を広くしてもいいのではないかと思うんです。でも、両親が言うことにも一理あるので、これから何度も何度も話し合っていかなくてはと思っています。
――話は少し変わりますが、シリア難民問題について、日本は難民受け入れではなく、シリアに帰れるような支援をするべきだとの意見があります。これについてどう思いますか?
もちろんそういった支援も難民をなくす上で必要なことですが、現にいま、日本に来ているシリア難民の方がいるわけです。これからしばらくは増えても減る要素はないので、きちんとした枠組を考えて受け入れるべきではないかと思います。インドシナ難民の場合もある意味特別枠だったわけで、シリア難民に関しても、日本が世界レベルについていくのであれば、柔軟な対応が必要なのではと思いますね。現に日本にシリア難民の人がいて、いまのシリアの状態では帰れないわけですから。
現在大学四年生のシャンカイさんは既に就職先も決めた。東京にあるPR会社で、企業のプロモーションの提案をするプランナーとして仕事をはじめる予定だ。
――PR会社に決めたのは?
いろんな理由があるんですけれど、就職活動をするにあたって、自分が外国人であること、難民であることを非常に負い目に思っていて、最初に内定をいただいた企業に行こうと決めていたんです。いちばんに内定をくださったのがそのPR会社だったので、迷わず、満足して決めました。
――不安があるなかで就職活動をして、企業の反応はどうでしたか。
ふたをあけてみると、10社くらい受けたのですがほとんど最終選考まで行きました。就職先の会社は、最終面接で社長から「来てくれ」と言われたので、その場で決めました。正直、業種にこだわりはなくて、商社や鉄道などいろんな業界に志願していました。業種ではなく、自分という人間を見てくれる会社に行きたいと思っていて、最初に内定をくださった会社がまさにそうだった。置かれた環境でいかに自分のベストを出すかしか考えていないので、いっさい後悔はないです。
――社会人になって「こんなことをしたい」といった展望はありますか。具体的なことでも、抽象的なことでも。
しばらくは難民問題からも一線を引いて、会社の仕事に没頭しますが、いずれ社会起業家になりたいとは考えています。ビジネスをしながら社会貢献ができる仕組みをつくりたい、そのためにもまず社会に身を投じて、いろんなことを吸収して、そのなかで「これだ!」というものを見つけたら起業したいと思っています。
Meal for Refugees(M4R)のプロジェクトを立ち上げて成功した体験が、自分にとって大きな自信になっています。いろんな人に支えられてM4Rがあるのですが、一所懸命頑張れば、まわりの人もついてきてくれて、何とかなると感じましたので、その体験を今後も生かしていきたいと思っています。
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