2009年4月、日本政府は生活を維持するための「保護費」支給を100人以上の難民申請者に対して打ち切りました。この事態に、難民支援協会(JAR)を含む7団体が生活費の支援のための緊急キャンペーンを実施。
食事や住居に困る難民に対して、多くの市民、企業が支援の手を差し伸べました。日本社会において持続的で包括的な難民保護制度はどうあるべきか、市民が改めて考えるきっかけにもなりました。
命綱が切られる
日本に難民として保護を求める人の数は増加し続けています。2008年は、難民申請者の数が初めて1,000人を突破し、1,599人にまで達しました。それに伴い難民認定の審査期間が長期化し、その間、申請者の多くは就労が認められず、国民健康保険や生活保護などに加入できないなど、困窮した生活を余儀なくされています。
こうした難民申請者に対して、日本政府は外務省を通じて「保護費」を支給しています。これは、最低限の生活を維持するための「命綱」として大きな存在です。しかし、保護費を必要とする申請者が増加していく中で、保護費予算が不足するおそれがあるとして、2009年4月、外務省は支給対象者に優先順位を設けました。そのため、支給を求める人の約半数の100人以上が保護費を打ち切られるという事態に陥りました。
*「保護費」 難民認定申請者に対する唯一の公的な生活支援金(生活費・宿舎借料・医療費)。1983年以来、保護措置(保護費支給制度)として実施されている。現在、外務省が財団法人アジア福祉教育財団難民事業本部に委託して支給。生活費として1日1,500円(子ども750円)、住居費として単身で月額4万円。
民間支援団体による共同キャンペーン
保護費を突然切られ、「もう数日ご飯を食べていない」「家賃の滞納で出て行くよう通告されている」と駆け込んでくる相談者が後を絶たない切迫した事態を受け、難民支援に従事している複数の団体で実行委員会を組織し、「難民支援緊急キャンペーン」を実施。
2009年4月末から、保護費の支給要件が緩和された9月まで実施され、広く一般に緊急カンパを呼びかけました。実行委員会以外に20以上の企業や団体が協賛・賛同し、多くの一般個人から、寄付金のみならず、多数の食料や日用品の寄付が寄せられ、難民に路上生活を強いることなく緊急事態を乗り切ることができました。同時に、政府に対して保護費予算の増額などを求めた申し入れを行いました。
*詳細は、緊急キャンペーンの最終報告をご覧ください。
最後の砦として −スタッフの思い
緊急キャンペーンの5ヶ月間を「死ぬ思いの忙しさだった」とスタッフは振り返ります。それまでの10倍以上にのぼった相談件数と、通常とは異なる緊急支援の実施、またキャンペーンの事務局としての業務も担いました。
JARでは以前からも困窮度の高い難民の方に対して1日あたり1,500円の金銭支援「緊急ファンド」を行っていました。通常、時間をかけた詳しい聞き取りを行いますが、今回はやり方を変え、設けた基準から判断して支給を決定し、急増する相談に対応しました。また、予算の見通しがつかない中、多くの必要とする人に支援すること、支援を継続することを優先するためには、日単価を1,000円に下げて月額3万円とせざるを得ませんでした。日本、特に東京などの都市で生きていくには十分な金額でないことは承知の上での判断ですが、スタッフにとってもつらいことでした。「これでどうやって生きていったらいいのか」、「子どもに食べ物が買えない」「このままでは家族全員でホームレスになるか、ばらばらに暮らすしかない」などの声も多く寄せられました。その状況は痛いほど分かるのですが、残念ながら私たちに提供できるものがこれだけしかないため、それを何回も説明し、分かっていただくよりほかありません。「何もしてくれない!」と怒られることもたびたびありました。ただ、そういった怒りをぶつける場所があるということは彼らにとってとても重要なことだと理解しており、それを受け止めることも重要な支援のひとつ、大切なコミュニケーションのひとつと考えています。むしろ、疲弊しきっているのに、感情が出ない場合はとても心配ですが、きめ細かいフォローアップができないことにはがゆさも感じました。
地方のコミュニティに出かけて相談会を開き、支援金を手渡すことも行いました。まとまった人数に対して計数十万円の支援をしたときなどは、キャンペーン残高のことが気がかりで、手が震える思いでした。
また、JARにとって大切な収入源である恒例の夏の寄付キャンペーンをとりやめ、緊急対応を優先しました。緊急キャンペーンで集まった資金は使途を指定した寄付であるため、他の寄付とは別に会計処理を行います。現場の生活支援スタッフが、普段やったことのない毎日の現金出納管理にも時間を割くことになりました。
政府との交渉では、外務大臣への申し入れを行うにあたり、担当部署の人権人道課を窓口として交渉を開始しました。NGOとしてもまとまって話せた方が効果的ですし、刻一刻と変わっていく状況に対応するためにも、定期協議の機会を持つことが提案されました。その後2ヶ月に1回程度、意見交換会が開かれるようになったことは成果の一つです。
一方で、「保護費」予算に関しては、根拠法がないために、不足分を自動的に充当するということができないことが分かりました。都度、財務省に伺いをたてるための資料づくりも大変だという話も聞き、予算増は簡単ではないと感じました。しかし、難民申請者の側に立てば待ったなしの状況なので、一刻も早く具体的な進展をさせるために、私たちはどうすればいいのか、もどかしさを感じることも多く、やはりセーフティネットが担保される法改正の必要を強く感じました。
「自分たちが支えないと」という緊迫感が続き、毎日帰りが遅くなるスタッフ同士で「大丈夫?」と声を掛け合いました。広報面での他団体の方々ががんばってくださったことも大きな支えとなりました。何よりも、キャンペーンに対して市民、企業からの大きな反響があり、予想以上の支援が集まったこと、難民申請者からの感謝の言葉や笑顔が心のよりどころとなりました。
生活や法的支援の相談を受け付けて支援金を渡す業務と同時にキャンペーン事務局として機能し、政府交渉も行うというJARの底力を発揮したとはいえ、「これからもやれると聞かれたら、もうゼッタイ無理!と答える」とスタッフは言います。もちろん実際に緊急的な事態になれば、苦しむ難民を放置して何もしないということはありません。ただし、セーフティネットを民間で作り続けることには限界があります。
キャンペーンから見えたもの
市民の力
キャンペーンの結果、1人当たり月額3万円の生活費を372人、延べ854件の支援を続けることができました。また、シェルター運営に着手し、のべ23人のホームレスに陥った申請者に住居を提供しました。
限られた支援金で何とか申請者の最低限の生活を維持しようと工夫する中で、様々な企業・団体・個人の皆様からシェルター提供や食料・生活必需品の支給など多岐に渡るご支援がありました。さらに、この取り組みを多くのメディアに共感を持って取り上げていただいたことで、市民社会における難民問題への関心も高まりました。
このような多くの市民の理解と協力が、今後、更なる支援と理解の輪を広げ、今後の難民保護体制に向けた議論を進める中で、強力な後押しとなることを確信しています。
また、政府への働きかけをする中で、より良い難民保護体制の構築に向けた包括的な議論するための重要な基盤を作ることができたことも大きな成果でした。特に、関係省庁・機関と定期的な話し合いの場を持つことができたことは、私たちによって重要な進展でした。
今後の難民支援
キャンペーンによる政府への働きかけの結果として、保護費の支給要件は緩和されました。しかし、保護費が支給されるまでの待ち時間は2〜4ヶ月と非常に長く、「緊急人道支援」としての役割を果たしているとは言いがたい状況にあります。
そのため、支援団体には依然として保護費の支給を待つ多くの申請者が相談に訪れています。また、日本で保護を求める難民の数は増加の一途を辿っており、今後も保護費が再び枯渇するという事態も起こりかねない状態です。一方、「物品や金銭支援を受けるのではなく、自分の力で生きるための就労支援をしてほしい」と難民は訴えます。
JARは、この経験も元に、「難民認定申請中(裁判中も含む)の生活に関する制度的な保障を行うこと」など生活上の課題から、制度、支援体制の課題を含めた改正要望をまとめた「難民認定及び支援に関する要望書」を、2009年10月、法務省に提出しました。国際社会からも、難民申請の結果を待つ間のセーフティーネットの不在を改善するように指摘されています。(詳しくはこちら)
一方、政府だけが難民保護に関わればいいというものではありません。日本は難民をどう受け入れていくのか、より持続可能で包括的な難民保護制度を日本社会全体で議論する時にきています。政府がすべきことと市民が担う活動について、JARは支援の現場から提案をしていきたいと考えています。
2010年6月23日掲載
お詫びと訂正(2023年11月12日)
保護費開始の時期について誤りがありました。お詫びして訂正いたします。
(誤)1982年以来、保護措置(保護費支給制度)として実施されている。
(正)1983年以来、保護措置(保護費支給制度)として実施されている。