難民支援協会と、日本の難民の10年

弁護士・児玉晃一さんのお話

※ 児玉晃一弁護士の最新インタビューはこちら

アフガニスタン難民に関わろうと思ったきっかけ

 私は、アフガン難民事件以前から、入管問題調査会というところで、収容されている外国人の処遇に関する問題を考えるなど、外国人の収容問題に高い関心と問題意識をもっていました。
 そんななか、2001年10月3日、アフガ二スタン人難民申請者9名が一斉摘発され、東京入国管理局に全員収容されるという事件が起きました。申請中の方が一斉摘発されその全員が即刻収容されるという前例のない事態、彼らの住所まで調べて直接強制的に連行するという公平性を欠いたやり方に、いてもたってもいられず、アフガン難民弁護団の一人として事件を引き受け、翌週の訴訟提起を目指し、早速準備を始めました。

当時の活動、思い

 収容令書の取り消し訴訟及び執行停止の申し立ては、それまで昭和44年の1件を除き認められたことがありませんでした。収容令書による収容は、通常30日間、延長された場合でも最大60日間しか認められないので、その間に退去強制令書が発付されて、退去強制令書による収容に切り替えられたら、収容令書の取消訴訟は無意味になってしまいます。そこで、訴訟をする場合は、退去令書の取消訴訟をすることが一般的で、申立の数自体がほとんど無かったことが理由と思われます。

 しかし、あまりに不合理な収容であったため、一日も早く解放してあげたいという思いから、私たち総勢20名の弁護団は、急ピッチで準備をすすめました。10月13日、収容令書の取消訴訟及び執行停止の申立てを行いました。そんな一刻を争う状況のなかでも、難民申請者一人ひとりに収容中の状態を聞くなど丁寧に依頼者の声に耳を傾け、夜遅くまで会議を重ね、訴状を完成させていきました。当時若手の弁護士だった渡部典子先生たちが、時間がない中で自らコピーなどの事務を率先してやられていた姿も印象的でした。

 しかし訴訟の結果はそれまでの判例の流れからいって、決して楽観できるものではありませんでした。
 そのようななか裁判所から、追加の主張立証の問い合わせがあり、勝訴に向けての期待が高まりました。私たちは喜んで難民支援協会などとともに身元引受人を探すなど、身柄解放に向け準備を行いました。

 11月5日、私たちは18時30分に東京地方裁判所から急に呼び出しを受け、民事2部から4名について執行停止の申立てについて決定の言い渡しを受けました。しかし残念ながら私たちの期待に反し、執行停止の申立て却下の決定でした。弁護団のなかには、難民弁護士間のネットワークをつくれたことがせめてもの救いという声もありましたが、私は、「今回の事件で認めらなければ、今後30年何も変わらない。あきらめず、とことん頑張ろう」と声をかけ、みんなを励ましました。

夜を徹して行われた弁護団での打ち合わせ→

 翌日11月6日、東京地方裁判所民事3部は、申請者5名について、執行停止の申立てを認め、5名の身柄はその一週間後解放されました。決定は5名の申請者が、「難民である蓋然性が高い」ことを認めたうえで、本件収容令書発付処分が難民条約31条2項に反すると明確に述べています。

 執行停止が認められなかった4名は、どうして自分たちはだめだったのか理由がわからず、なかには、洗剤を飲み、自殺を試みた者もあらわれました。その後も、のべ19名ものアフガ二スタン人難民申請者が自殺未遂をはかったと記憶しています。それほど、収容所の生活は、精神的にも肉体的にも負担が大きいものであったのでしょう。
 他方、身柄が解放された5名ですが、外にいる時間は長くはありませんでした。翌月12月19日東京高等裁判所が民事3部の決定を取り消してしまったのです。

 11月に彼らが収容をとかれた後、私たちは潮見教会にいって健康状態を聞いたり、一緒に食事をするなど、親交を深めていました。

 12月21日入国管理局の出頭要請に対し、依頼者が再び収容されることをわかっていて入管まで連れて行くのは、非常に辛いことでした。弁護団の間でも「つれていくのをやめよう」という意見もありましたが、結局強制的に連行され収容されるであろうことや、仮放免を視野にいれて、苦渋の決断で、私も彼らと一緒に潮見教会から彼らを入国管理局に連れて行きました。マスコミなどもかけつけ大変な騒ぎのなか、彼らがいった「支援していただいた方に感謝しています。私たちは逃げも隠れもしません」といってくれたことが忘れられません。

 彼らは収容令書により再び収容され、27日には、退去強制令書が発付されました。それでも、私たちは、決してあきらめることなく、2002年1月4日に退去強制令書発付の取消訴訟を提起し、執行停止を申し立てました。訴え提起にあたり、オーストラリアやニュージーランドの最高裁判決を読むなど研究も重ねました。またこの先どうなるかという不安、収容のストレスから医師からATSDの診断をうけた方もおられたため、その診断書を証拠となるよう添付しました。

 依頼人のためにとことんやる、やれることはすべてする。そういった気持ちでした。おかげでお正月もほとんどありませんでした。弁護団みなさんがそうだったと思います。
 そのような努力もあり、3月1日、東京地方裁判所民事3部は7名の退去強制令書の執行停止を求めた申立てについて、収容部分も含め執行停止を認める決定をだしました。
一方で、当時アフガン難民申請者で収容されている方は、訴訟係属していた9名のほか、約20名前後おられました。訴訟の準備と同時に、彼らの相談にも応じていたのですが、洗剤を飲むなどの自殺未遂が相次ぎ、また血を吐くなど体調を害される方もおられたため、面会を重ねていました。

 3月1日の決定がだされると、私たちはどうなるのかという、説明を求められ、また彼らは抗議として自殺を試みるようになりました。
 命が失われる危険もあってか、入国管理局は19人を仮放免としました。
 7名については入国管理局が東京高等裁判所に抗告していたのですが、6月東京高等裁判所は収容を認める決定をだしました。この決定を受け7月1法務省東京入国管理局は7人をいったん収容したものの、同日中に仮放免しました。
 このようにして、私たちの約10ヶ月に及ぶアフガン事件は、一段落したのです。

今振り返ってアフガン事件とは

 当時、私の仕事の8割がアフガン事件で、夜遅くまで会議を行い、議論を重ねるなど本当に大変でした。しかし、弁護団のなかでは、すべての弁護士が自然にできていた役割分担に従いそれぞれの仕事を一生懸命に行っていました。
 裁判官の心証に変化を及ぼす事が出来たのも、その成果かもしれません。

 2001年11月6日の東京地方裁判所民事3部の決定は、収容令書発付処分が難民条約に反すると判断した初の判決であり、収容令書発付処分の執行停止が認められたという点でも非常に珍しい、価値ある決定です。

 また、収容による身体拘束についてで、藤山裁判長は、「個人の生命を奪うことに次ぐ重大な人権侵害」と認定し、「このように人権に重大な制約を及ぼす行為を単なる行政処分によって行うこと自体が異例なのであるから、この処分の取扱いには慎重の上に慎重を期すべき」とまで述べているのです(2002年3月1日の東京地方裁判所民事3部決定理由)。

 平成17年行政事件訴訟法は改正施行され、より権利救済に資するものになるはずでした。執行停止の要件も、「回復の困難な損害を避けるための緊急の必要」から「重大な損害を避けるため緊急の必要」に緩和されています。藤山裁判官が言及したとおり、収容が重大な人権侵害にあたることを考えると、難民申請中の収容については執行停止の可能性はより広がったといえますが、残念なことに、収容部分の執行停止が認められる例は極めて限られており、実務は後退していると思います。(また、義務付け訴訟、仮の義務付け訴訟新設により、仮放免の義務付け訴訟なども提起できることになります。)

 司法は、処分結果を不当とする申請者が、救済を求めることができる最後の砦です。
 訴訟手続きが、権利救済を重視したものになるなか、アフガン事件及び藤山判決の意義を見直すことにより、より充実した難民事件訴訟を行うことができ、不合理な収容から難民を救済することができるのではないでしょうか。

(インタビュー:2009年9月)

2010年1月15日掲載